余白の轍       渡辺 誠一郎
プロフィール
1950年宮城県塩竃生れ
1989年佐藤鬼房に師事
1990年小熊座同人
1992年第17回宮城県俳句賞準賞受賞
1993年「そして」参加
1996年現代定型詩の会参加
1996年第1回小熊座賞受賞
句集「渡辺誠一郎句集」「潜水艦<私家版>」
現代俳句協会会員
佐藤鬼房序より<抜粋>

 渡辺誠一郎の厳父がこの四月に亡くなった。彼が父を詠んだのは

     秋夕焼父断層のごと斜め
     九月から父の背中は砂の色

 の二句だけだが、リアルに苦痛の姿態や、渇いた灰白色のさらさらした皮膚を
描きながら、決して暗い深刻な仕上げ方をしていない。彼の作品は概ね土俗に
拠り現代風俗にかかわるが諷詠のゆとりというか、柔軟な俳諧の特徴を備えてお
り、切羽詰った息苦しさは無い。
 しかもここで特記したいのは、肉親である病める父を通して、彼の生れた土地の
さまざまな痛みをそれとなく伝えているということだ。たとえばアラゴンの「エルザ」の
眼のように。
 この句集の後半を占めるねみちのく幻夢想望が、必ずしも胸中で充分に発酵を
なされたものばかりとは言えないが「詩は舞踏である」という私の初志の思いが彼の
背筋にも通っているのを強く感じる。多分、暗黒舞踏の土方巽のイメージの中にあ
ると思うが
      
      蝙蝠の馘首やきらら巽の背

にしても吉岡実や永田耕衣の土方巽頌とは異なるだろう。また異なっていいのだ。

    ’’舞踏とは命がけで突っ立た死体である’’   土方巽

 であるならば、詩<俳句形式は命がけの舞踏、と言ってよい。そして「死体」の凄じ
さは書かない<書けない>
にしても、舞踏の命がけで突っ立った固体、は書けるのだ。いま、彼はそれを試行
模索し続けている。

       寝室か霊安室か花筏
       メタフィジカルか豚になりたし梅雨の夜は
       蝙蝠を抱けば性愛微かなり
       竈馬誰も乗せない乗りにくし
       満天の星の一つは毛深くて
       しゃっくりの影や真田虫の影や
       軍艦に乗って遥かな雪達磨
       白鳥の影絵に残る釘頭
       いみじくも補陀落という駱駝かな
       月山をぐるっとまわって桐の花



     橋本 七尾子・ああ面白かった

 244句、その多くは反故になりゆく運命である。それはだれの句集でも同じことだ。
そしてその中に、ほんの時々、俳句の神様の恩寵を受けたかのように現れる、美し
い、愛すべき、幾つかの句々。
  
       蝙蝠の接続回路踏まれいる
 なんだか気の毒で可笑しい。

       焼鳥のアラビア文字の姿かな
 これもなんだか気の毒で可笑しい。

       牛乳を飲ませてあげる春の鳥
       軍艦に乗って遥かな雪達磨
 優しさと可笑しさと詩情。わたしの好みの偏りかもしれないが、いいと思う句はどれも
優しく可笑しい。

       山眠る一身上の都合なり
       霧の夜潜水艦の添寝かな
       蚊柱は電気仕掛と思いおり
       久々に母の箪笥に虹が立ち
       遺書一枚外階段を降りてくる
       寝苦しき闇伸び切れば蝶の舌

 とにか句稿を読んでいて最後まで面白かった。また面白い句集を作って下さい。