小 熊 座 鬼房を見よ  金子兜太
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  2005年佐藤鬼房展  その生涯と俳句の世界


                   

  平成九年、多賀城で開かれた壺の碑俳句大会  左 鬼房  右 金子兜太 





    鬼房を見よ  金子兜太   (パンフレットより転載)


 鬼房に初めて会ったのは、東北の福島市。真冬だった。私は、当時勤めていた銀行の福島支店
に1950(昭和25)年12月に転勤していたのだが、鬼房が訪ねてきたのはたしかその翌年の冬の

初め頃だったと思う。鬼房は阿武隈川べりの私の家にぶらりやってきた。炬燵を囲んで一晩を
過ごし、彼は熊のようにのそのそと自分の家に帰っていった。まったく熊のように重く、どこか鬱
屈を蓄えた後ろ姿が、今でも目に浮かぶ。二人とも30代初めだった。

  切株があり愚直の斧があり

  その孤独。霊の奥に潜む、切株のように孤立したものの野心と、俳句にこれだけ打ち込んで
いる愚直なる者の、土臭く重厚な意力を、その時痛感していた。

  鬼房は第一句集『名もなき日夜』を、この翌年上梓している。また4年後には第二句集『夜の崖』
を出している。この昭和30年、私は神戸にいた。石灰岩の土壌も街並も乾いて白い、港都のエキ

ゾチシズムが私の日常を包んでいた。『夜の崖』からひしひしと伝わってくる土黒く寒冷な東北の風
土とは、まったく対照的で、それだけに鬼房の句の生々しい息づかいやたくましい詩魂は深く印象に
残った。

  彼のボスか花火さかんに湾焦す

  今でも、真っ先に思い出す句である。魚介や塵芥が混じった藻の密集した、やや澱んだ潮の
色。それに魚や芥の匂いが混然とした潮の匂いが強く鼻をっく。その湾が夜を迎え、空に咲く花火
を映す。

暗い澱みはいっそう暗澹とし、匂いはいやがうえにも増す。そして、その花火を揚げる者、ボスへの
批判がある。その批判、あるいは批評というべきものは哀韻を伴っている。それは、この句があくま

で具象そのものであり、確かな韻律を伴っているからだ。夏の終わりの花火の湾、そこに注がれる
作者や町の人の顔、さらにはボスの眼にも、逝く夏の哀感が宿っている。批判されるべきボスもま

た人間なのだ。鬼房のどの作品にも底流している、この批評は、人間であることの、その善意の表
れなのである。

   縄とびの寒暮いたみし馬車通る

 これも今も時々口にする好きな句。鬼房が釜石生まれで塩竈育ちであることが、先入観としてあ
るせいかもしれないが、私には、寒幕という言葉から、ストレートに東北の寒い町や石ころだらけ

の田舎道が思い出されてしまう。「縄とびの寒暮」があり、そこを「いたみし馬車通る」であることは
いうまでもない。それにもかかわらず、私の中では、「寒暮」がそのまま「いたみし馬車」のごとしと

受け取れるのだ。「縄とびの寒暮いたみし」であり、「いたみし馬車」である。「寒暮」すなわち「いた
みし馬車」の映像に、みちのくの土着者が体感している風土がある。山国育ちの私は、この句を最

初にみた時、ふっと潮の匂いを嗅いだような記憶がある。そして、空は鈍く、車輪の向うに光り、とき
に、その空のかわりに鈍い海の光があるようにまで思えたのである。

 鬼房の俳句は社会性俳句や前衛俳句の波の中で、生活者の批評性に加え、風土を屈強の支
えとすることで、確かな土台を築いていった。土着の性根が、若々しい野心を空回りさせることなく

醸成していったといってもいい。私が自分の故郷の秩父山河やそこで育った幼少年期の体験を改
めて思い返すようになるのもこの頃からで、鬼房への親しみは、しだいに親近を越えてライバル意
識にまでなっていったのだ。以来、私は鬼房の作品を注目してきた。
       
    陰に生(な)る麦等けれ育山河

 を、1975(昭和50)年刊行の『地楡』で読んだ時も、やるなあ、この男と臍を噛んだものだ。麦が
しだいに豊熟して、緑の山河の陰部になる。陰といえば女陰を意味することが普通だから、作者の

念頭には、「青山河」は女体のなめらかなうねりとしてあり、麦はそのあらわなる陰部として想像さ
れているのだ。この「青山河」は産土であって、母の女体なのだ。母なる土に麦の生命の成熟の

熱気を受け取り、麦の穂立ちに恥毛まで覚えて、それを「母なる土」の女陰とおもい定めたのであ
る。豊潤でさわやかなエロスがあり、卑猥な印象は少しもない。

 こうした鬼房の風土に根ざした抒情、情念ともいいたい、寒気を帯びた錆色の抒情、そして、山河
や人々との同体感のもと、祖霊を呼び、原初に還って発想や内面の深化を遂げた重厚な具象性
は、戦後俳句の中でも他に抽んでいたといえる。

 俳句を決めるものは(人間の総量)である。総量をかけていけば、その人らしい俳句の形姿も、
技法も出来上がってくるものだということだ。
    今改めて、初期の作品につづけて、

    やませ来るいたちのやうにしなやかに

    みちのくは底知れぬ国大熊(おやぢ)生く

    流氷に乗り来て居場所失へり

    祖霊眠れ北上川(きたがみ)真冬波の牙

    混沌と生き痩畑を耕せり

                                     
 といった晩年の作品を読み返す時、「愚直の斧」鬼房が、自分の総量を直(じか)に俳句に打ち込
んできた過程が見えてきて、その節目節目の立句も見えてくる。

  俳句はかかるもの、かく作れIといった入門講座も、ときには必要かもしれない。しかし、いつまで
もそこにこだわっている限り、個性の乏しい、徒に平坦で、のっべらぼうで短小な句作りに終始する

だけである。昭和40年代以降の俳句に魅力のあるものが少ないのは、そのことにもあると私は見
ている。子規のように「俳句は文学なり」と胸を張っていえるだけの根性が欲しい、鬼房を見よ、と
私はいう。





  
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