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 小熊座・月刊

俳句時評

2026.vol.42 no.491

詩歌の球体

小田島 渚

『苦海浄土―わが水俣病』には一度読むと忘れられなくなる場面が数々ある。坂上ゆきの漁の話。魚や蛸の命が人間と同じ太陽のもとで輝く世界。そして「ゆりがこぼす涙」はなんであるかと、娘の魂のあり処を夫に問い詰める妻の場面。これらは、録音された語りをそのまま写したものでもなく、実際の水俣弁を忠実に再現したものでもない。石牟礼道子が創造した文体なのである。にもかかわらず、なぜこれほどまでに実感を伴って心の奥底まで響いてくるのだろうか。二月に上梓された武良竜彦の『石牟礼道子―たましいを浄化する文学』では、この謎について、石牟礼が浄瑠璃のような土俗的な「かたり」の手法を得ていたと答える。世界を二項対立で切り分ける思考に対して、石牟礼の語りは、むしろ中心を持たない球体のような世界を想像させる。そこでは人間と自然、生者と死者の境界さえも揺らぎながら共存している。

武良は自らの親族が水俣病の被害者であり、父親はチッソ水俣工場の工員であった。その狭間で引き裂かれるように生きる中で『苦海浄土』に出会った。石牟礼作品に苦渋と魂の浄化の両極を見出しながら書かれた本書には、並々ならぬ情熱が注ぎ込まれている。武良は、石牟礼の文学的主題を地球規模の環境破壊、家父長制度下の女性差別、前近代以前の日本文化の喪失と大きく三つに大別する。ここでの日本文化を武良は自然への畏怖を基底とする非文字の口謡文化と呼ぶ。先の坂上ゆきやゆりとその両親が暮らす世界と思えば、想像しやすい。石牟礼の言葉では「天」や「玄郷」、この世でもあの世でもない「もうひとつの世」と表現される。すでに喪失した世界にいる筆者にとっては、それは、各々の心が綾なして、ようやく姿をあらわす、あるかなしかの舞台のようにも感じる。

上野千鶴子『〈おんな〉の思想』は、日本のフェミニズム黎明期の開拓者六名を一冊の著作と共に上げる。森崎和江、田中美津、富岡多惠子、水田宗子の中に石牟礼の名があるのは意外であった。フェミニズムの文脈からすれば、取り上げる一冊には、『最後の人 詩人高群逸枝』や幼少期に近所で刺殺された十六歳の娼婦が書かれる『椿の海の記』、巫女を中心とする『天湖』などの方が相応しいとも思われる。しかし、上野は、『苦海浄土』を取り上げ、「おんなの思想的達成」と称揚した。上野は石牟礼の憑依性の高い文体を「道子弁」と名付け、それを「古代的」「巫女的」と神殿に祀り上げることに異議を唱える。女の神秘とでも蔑称され、神懸かりの産物として理解されかねないからであろう。石牟礼に大きく影響を与えた一人である高群逸枝に石牟礼は生前会うことが叶わなかった。高群の没後、その夫橋本憲三は石牟礼を尋ね、二人は「森の家」で半年ほどの共同生活に入る。谷川雁の影響下にあった石牟礼は、そこで、表現の言葉がいまだ男の言葉であることに気づき、それで語れば男の思想、男の権力になってしまうことを悟る。谷川に象徴される男の思想との訣別は、この経験の中から生まれた。「森の家」で、石牟礼は自らを故郷水俣の「悶え神さま」としようと言葉との壮絶な闘いに挑み、『苦海浄土』が書き継がれた。上野は、石牟礼が男言葉を学び、そして学び捨てたあと、自身の言葉を獲得した時期に並行して書かれたのが、『苦海浄土』であり、ゆえに「おんなの思想的達成」と見ているのである。

不思議な符合だが、高橋睦郎も石牟礼が男性から取り戻した地位に言及している(第二十五回壺の碑全国俳句大会平成三十年講演「『されく・のさる・もだゆる』をめぐって」)。高橋は、『苦海浄土』を、民衆、それも底辺の打ち捨てられた人々のみならず、鳥獣虫魚、山川草木をも一体の主人公とした魂鎮めの叙事詩であると語る。高橋によれば、日本の詩歌の歴史は、宮廷詩人の地位を柿本人麻呂が額田王から奪取して以来、女性の所産であった詩歌を男性が奪い続けてきたが、石牟礼が『苦海浄土』で女性の詩歌の地位を再び取り返したと言う。高橋自身はこれを「独断と偏見」と断りつつ語っているが、極めて刺激的な見取り図である。講演の最後に高橋は、野晒しになるまでさ迷い歩き(されき)、底辺に苦しむ人々、死者のみならず、鳥獣虫魚、山川草木に憑依され(のさられ)、共に感じ、共に苦しみ、表現しようと身悶えた(もだゆる)石牟礼の姿勢から、時が熟すのを待たずに量産される今の俳句を諫めた。俳句が本来どこから生まれるものなのかを、あらためて考えさせる言葉である。

石牟礼の表現は、短歌から始まったがその限界を感じて、文学へ移行。再び短詩として最後に俳句を選び取った。〈さくらさくらわが不知火はひかり凪〉〈祈るべき天とおもえど天の病む〉〈忘魂とおもう蛍と道行きす〉。武良は、石牟礼の俳句世界を理解するために、膨大な文献にあたり、俳句集『玄郷』と小説『春の城』の対比など細密に検証し、石牟礼俳句は、正岡子規にはじまる近代俳句史の系譜には位置せず、「ことあげ」する古謡など古代的精神文化の流れにあるとした。広範な視野に裏打ちされた指摘である。系譜などで俳句の流れを線的に捉えることは、整理、特性の抽出などしやすくなる大きな利点がある。しかし、その時、石牟礼俳句は俳句史から消えてしまうのだろうか。ここから筆者は、石牟礼の世界観から詩歌の歴史を別のかたちで想像してみたい。詩歌は、時間軸の上で敗者を生みながら批判的に発展するものというより、むしろ球体状に広がるものではないだろうか。石牟礼が女性の詩歌を再興したとしても、額田王も柿本人麻呂も敗者となって消失はしない。球体には様々な可能性が消えずに呑み込まれていく。石牟礼の俳句もまた、この球体の外にあるのではない。その意味で言えば、昭和三十年代に隆盛し、その後勢いを失ったかに見える前衛俳句もまた、排除されることなく未来へと繋がっていく。さらにこの球体は権威となる中心を持たず、その拡大の先に、目指すべきただ一つの俳句像もない。球面の至るところで、ざわざわと俳句が生まれ続ける。一切が取りこぼされず、球体そのものが詩歌であり俳句である。この詩歌の球体という想像は、いまだ心象の域を出ないが、言葉が本来持っていた深い井戸のような時間を、あらためて思い出させる。私たちはその井戸の縁に立ちながら、それぞれの地点で新しい俳句を書き続けているのではないだろうか。

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