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 小熊座・月刊

俳句時評

2026.vol.42 no.490

俳句の鑑賞から俳句史へ

樫本 由貴

本年も『小熊座』時評欄を担当させていただけることとなった。私事だが、二〇一六年に入会して本年は一〇年目の年にあたる。これまで以上に精進していく所存である。どうかよろしくお願いいたします。

さて、『小熊座』一二月号掲載の四〇周年記念座談会その2「小熊座を振り返る」にて、及川編集長が筆者に「俳句の読み方」を問われた。筆者はその際に、一句評の鑑賞文であれば技術で書けると答え、小熊座の俳句の場合なら、俳句に用いられる言葉の源流を求めて師系を辿るというように言ったが、これは正確には鑑賞のテクニックではなく、鑑賞文を書く時のテクニックの一つである。ここに筆者が鑑賞文を書く際に何を考えているのかを残しておく。

己の関心事以外に焦点を当てた鑑賞文を書くこともある筆者は、「芸術作品などのよさを見きわめ、味わうこと」(『日本国語大辞典』第二版)である鑑賞を言語化する際、その俳句の「よさ」=価値を見極め、味わうさまを、相応の知識や根拠づけとともに書きつけることを第一にしている。これは、様々な立場にある読者に普遍的にその俳句の価値が理解されるように意図しているだけでなく、鑑賞文自体が、鑑賞の手順の一つを示すものであることを意図してのことだ。ゆえに筆者は、私利の鑑賞文ではない場合、筆者がその俳句を読んで思い浮かべたこと――例えば一昨年どこそこで見た海の様子――を述べることはほとんどない。正確には、その海の様子を鑑賞文の中心に置くことはない。なぜなら、その文章が海の思い出話に変貌し、俳句の鑑賞文でなくなるからである。多くの一句評の場合、このようなことを書く紙幅もない。あくまでも鑑賞文は俳句の批評や価値づけを行うべきで、それには相応の知識や根拠を探す労力を伴う。具体的には切れ字、助詞、一物仕立てか取り合わせか、季語の位置はどこか。このような観点から俳句の構成に目配りし、それに関する知識の再確認をしたり、『図説大歳時記』の考証欄で季語の歴史的な本意を確認したり、最近の俳句雑誌をひっくり返してその句への言及を求めたりする。これらをまとめ、文に主述のねじれや不明瞭さがないことを確認して、鑑賞文の出来上がりである。こういう書き方でいると、俳句の言葉から離れていくことなく、俳句の言葉にこだわった鑑賞が出来ると、筆者は考えている。ちなみに、読解するときはこの作法はとらない。読解は、その俳句が「よ」くなくてもするし、味わうことに主眼はない。その俳句を理解することが第一で、肩入れしない、とでもいうのだろうか。筆者の場合、読解を含めた文章全体でもって俳句をどのように意義づけるかが、読解の主軸になることが多い。

さて、年末はこういうことを考えつつ、角川の『俳句年鑑』を読んだ。一年間合評鼎談を担当した守屋明俊、山西雅子、黒岩徳将の「今年の秀句を振り返る」には、過去の俳句をどう吸収し、新しい作品を生み出すかというテーマが話題になる部分がある。何らかの方法で俳句の歴史(おそらく、表現史のことだろう)を更新したいと気負う黒岩を、守屋と山西とが労わるようにも読めたが、黒岩の、俳句を読むことを好む若手の少なさへの危機感には、さもありなんという気持ちがある。

俳句表現の歴史的な更新や、俳句の担い手を拡張したり、俳句がより広い〝市場〟に参入したりすることを目論むなら、その人物は実作だけでなく俳句を読むプレイヤーにならねばならない。しかも、多くの他者の支持を得る/訴求する形で、である。赤城さかえがかの有名な評論「草田男の犬」を『俳句人』に掲載したのが一九四七年、さかえ三九歳の時。さかえの評論は俳句における観察と表現としてのリアリズムの観点へ一石を投じ、文字通り草田男の〈壮行や深雪に犬のみ腰をおとし〉を後世まで残すこととなった。現代に目を移せば、若手が作家論ではなく方法論で腰を据えて書いたものは、四年前の第二三回山本健吉評論賞を受賞した柳元佑太「写生という奇怪なキメラ」くらいではないか。代わりに、黒岩が所属する「いつき組」の組長である夏井いつきは、テレビ番組「プレバト」で、辛口添削の〝俳句のおばちゃん〟のペルソナを使って「俳句はこのように読むのだ」という方法論を身体的に実演し続けている。夏井はこれによって大衆に、俳句に「空」とあれば青いことが俳句の読み手と書き手の共通理解であると叩き込んだ。

彼らは俳句の豊穣のために、俳句実作のプレイヤーであることに安住せず、精神的にも物理的にも多大なリソースを割いている。もちろん、赤城、柳元、夏井では思想も、訴求する対象も全く異なる。しかし、どのように読めば俳句を価値づけられるのか=歴史に位置づけられるのか。俳句が文学の一ジャンルとして、人々の記憶に残り続けるのかに腐心する、その志の根は共通しているように見受けられる。角川『俳句』の一月号の座談会「これからの「場」」に集った堀本裕樹、西村麒麟、神野紗希、堀田季何の四人も、自らがプレイする場を変えて俳句の豊穣に寄与しようとしているのだろう。ここでも、座談会の最後では、堀本が「あなたに読んでほしいと言われる主宰であり、俳人でありたい」と言い、堀田が「読み手として成長しなくちゃ」と言っている。結局のところ、高浜虚子が言った「選は創作なり」の変奏なのである。のちの世にとって、ホトトギスの雑詠欄は虚子が作った物語――俳句史そのものである。これと同じで、俳句を書く側をプレイするだけなら、その人は書かれた俳句ごと、待つ側に留まるばかりとなろう。新連載の時評の担当者は大塚凱だ。同世代として楽しみにしているが、大塚が希求する「摩耗するもの」、その時にだけあった輝き、一回性を伴う「個別的な言葉のきらめき」は待っていても見つからない類のものだろう。これは、書かれ、摩耗し、見つけるのが困難になった後に、失われる直前で、あれがそうだったのだ、と思い出す類のものだからだ。技術の不可逆な成長が産む消失の輝きと言えるかもしれない。その消失に抗うことの最も小さな抵抗こそが、その俳句を鑑賞すること、それを書き留めることと思う。

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