俳句時評
2026.vol.42 no.489
韻律の内部革命
小田島 渚
韻律は短詩型の意味と感情の流れを底で支える背骨となる。短歌と俳句の中で、その背骨はどのように働き方を変えうるのだろうか。俵万智の「白き父」が昨年の短歌研究賞に選ばれた。〈「お父さん万智やで」としか言えなくて「やで」ってなんやと思う窓辺〉、自作自演という『サラダ記念日』での万智ちゃん先生は、死の際に立つ父に自分の名しか告げられない悲しみを、ツッコミという形式で現代的に歌う。『サラダ記念日』を読み、日常会話の延長で短歌が書けると感じ、短歌を始めた人も少なくなかっただろう。俵万智の出現から四十年近くを経たいま、その革命を韻律の側から捉え直してみたい。
短歌には調べという音楽が内在する。岡井隆は共著『短詩型文学論』において、短歌を「五音・七音・五音・七音・七音という一定の韻律をもった詩」と定義し、韻律を装飾ではなく構造そのものとして捉えた。母音を中心に音の流れを捉えるその視座は、短歌において韻律が感情や意味に先立って働くことを示している。
音声の質と長さの差異は、感情の勾配を生む。与謝野晶子の〈やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君〉は、初句から次第に高鳴り、「ふれも見で」で一度軽く息を置いたのち、「さびしからずや」で語気が急激に立ち上がる。一方、俵万智の〈「嫁さんになれよ」だなんて缶チューハイ二本で言ってしまっていいの〉は、五七五七七の定型を厳密に守りながらも、節を意識させない。この節のない調べは、メトロノームのような正確な足取りで時間の上を時間と同じ速度で歩く。韻律は軽く平らに保たれ、感情は盛り上げられるのではなく、時間の流れの中へ拡散していく。俵万智は節を消すことで、短歌を一首として閉じず、前後の時間と地続きのものとして読ませた。口語化の試みは俵以前にも蓄積されていたが、それを定型と結びつけ、現代の時間感覚として広く共有される形にした点に、彼女の革新の一つの核が見えてくる。
短歌における韻律の変化が、節の可視化や消失として比較的明瞭に現れるのに対し、俳句はさらに短い詩形であり、韻律はしばしば背景へと退き、語彙や写生の巧拙、文体が評価の中心となってきた。しかし、韻律が見えにくいことと、存在しないことは同義ではない。むしろ十七音という最小単位においてこそ、韻律はより構造的に働くのではないか。
俵万智の短歌において、韻律の革新が「節を消す」ことで時間の流れを平らにしたとすれば、若林哲哉の句集『漱口』における革新は、定型を保持したまま、その内部の音の配置を精密に組み替えることにある。
その構造を考えるとき、無印良品のパルプボードを用いた正方形のカラーボックスが思い浮かぶ。縦横一対一の棚が均質に連なり、全体としては強い秩序と安定感を備えている。しかし置かれるものの差異が、静かな変化として内部に生じていく。若林の俳句も同様に、十七音が正方形の棚の中に均等に収められている。その均整ゆえに一見すると写生の巧みさが前面に出るが、実際には各音節に置かれる音の質(母音の開閉、子音の硬さ、切れによる呼吸の位置など)が微妙に異なり、その差異が句全体に気配として広がっている。均質でありながら内部には微弱な運動があり、時間は止まらず、しかし流れすぎることもない。
〈涅槃雪薪の小口のあふぎがた〉は、対象はいずれも把握しやすく、写生として過不足はない。しかし印象を決定づけているのは語義ではなく、息を含んだ柔らかな音の流れの中に、硬い音が不規則に差し込まれる、その配置である。「あふぎがた」という表記は、発語のしづらさを生み、意味を強調することなく時間がわずかに滞る感触をもたらす。雪と木の質感が、ひと息のなかで接続されていく。若林の韻律は、出来事を刻印するための音ではなく、消えゆく現象に耳を置くための音の組み方として働いている。〈水筒の内なる水面虫時雨〉では、視線はほとんど動かない。水筒の内部の水面。そこに触れる虫時雨という極小の現象が捉えられる。「水面」という静止を示す語と、「虫時雨」という断続的な音を伴う季語の並置によって、時間は揺らぎ続ける。読者は強い切れや感情表現ではなく、消えかける音に耳を澄ませる位置へ導かれる。
その韻律的作用が端的に現れているのが、〈夜をそよぐ蕪の一葉となりてゐる〉である。「そ」「ひ」「は」といった息の擦れる音と、「よ」「を」「ゐ」の滑るような連なりが、視覚よりも先に触覚と聴覚を呼び起こし、「となりてゐる」という言い回しが時間を句の内部に滞留させる。ここでは風景が説明されるのではなく、音の流れによって生成されている。
このように見ていくと、『漱口』に収められた二五〇句の多くの句に作者が存在しているように感じられる理由が腑に落ちてくる。作者は感情として現れるのではなく、韻律操作の反復、いわば声として遍在しているのである。俳句の評価が写生の巧拙や語彙、文体の新しさに重心を置くほど、この「声の所在」は主要な評価軸の陰で見落とされやすい。
俳句において作者とはどこにいるのか。意味の中か、主体の表明の中か、それとも音の配置の中か。この問いは、俳句という形式に固有のものではない。詩は古くから、語る主体と、作品の中で立ち上がる声とのあいだに、つねに緊張関係を抱えてきた。近代詩の側から見てもこの問いは共有されている。T・S・エリオットの所論はそれを考える手がかりになる。エリオットは、詩を作者の感情の吐露としてではなく、形式や配置を通して声が生成される場として捉え直した。そのとき作者は前面に立つ存在ではなく、作品の構造に作用する媒介として位置づけられる。
この視点を俳句へ移すと、作者が前面に出ないところで、韻律配置が作る「声」が構造として作動していることが見えてくる。声は感情や場面として現れるのではなく、音の置き方の反復として遍在する。韻律を通して言語そのものを組み替えるとき、俳句は再び言語芸術としての「作者はどこにいるのか」という根源的な問いへ接続しうるのではないだろうか。