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 小熊座・月刊


   2023 VOL.39  NO.452   俳句時評


     歴史的仮名遣いと文語で、書くこと

                         樫 本 由 貴


  近頃、〈歴史的仮名遣いと文語で俳句を書く〉ことについてナショナリズムとの関

 係から考えている。なぜこんなことを考えているのかは後述するが、故に『俳句』

 11月号(角川文化振興財団)の浅川芳直による時評「俳句に埋め込まれた国粋主

 義」には目を引かれた。俳句のユネスコ無形文化遺産登録運動批判が主軸の浅

 川時評は、最終節で「俳句に登場する季感や審美観を価値づける際のナショナル

 なものへの依存や、読者への過度の同質性の期待(「日本人ならわかるはずだ」

 など)へ の慎重さを要請」し、「俳句が含む国粋主義に注意し、害を最小化する努

 力」を求める。

  注目したのは「読者への過度の同質性の期待」の部分だ。明言されていないが、

 「読者」に期待する主体は書き手とみるのが自然だろう。では「読者」とは誰か。こ

 れには一般的な意味の読者の他に、書き手自身が含められる。つまり、自身の俳

 句を「日本人ならわかる」と評価する〈第一の読み手〉である。この場合の書き手

 は、自分という読者に同質性を期待するどころか、それを疑わないだろう。自分が

 書いているものなのだから、自分が分からないわけはない。

  このような〈書き手たる私〉、〈今ここ〉で一行あるいは一言を、俳句をなすため

 に書きつける〈その瞬間の私〉は、どのように「ナショナルなものへ依存」を退ける

 のだろうか。そして仮に退けられた場合、そこに立ち現れる一筋の詩を、何を担保

 に俳句と認めるのだろうか。

  俳句の主要素を季感であると考える立場ならば、この問題に折り合いをつけるこ

 とは容易い。自然は〈国家〉ではないからだ。しかし、言葉そのものや型、韻律とい

 った言葉に関する観点に依存度が高い立場は、言葉がナショナルな文脈から離れ

 られない以上、この問題の前にしばし逡巡するだろう。とりわけ、歴史的仮名遣いと

 文語で俳句を書くこと、それを選択し続けることは、この文脈を強く引き受ける。

  蛇足だが、筆者は現代仮名遣い+口語や現代仮名遣い+文語で書かれた俳句

 を俳句ではないと言いたいわけではない。考えたいのは、筆者を含め、自らが書き

 つける一行の詩を俳句と規定する要素として、歴史的仮名遣い+文語を代表とす

 る〈言葉〉を重視する書き手のことだ。

  浅川時評以前に、私に〈歴史的仮名遣いと文語で俳句を書く〉ことを考えさせたき

 っかけの一つは、今年9月、没後30年を記念して刊行された『李良枝セレクショ

 ン』(白水社)だ。李良枝は在日韓国人二世の作家である。簡単に略歴を述べよう。

 彼女は1955年、日本で暮らす韓国人の両親のもとに生まれ、小学生の時に両

 親の日本国籍取得に伴って帰化した。両親の離婚や自身の高校中退などの経験

 を経て早稲田大学に入学後、1年で中退。1980年に初めて韓国を訪れ、以来、

 韓国の巫俗舞踊(ムソク)、伽耶琴(カヤグム)、語り歌(パンソリ)に親しんだ。

 その後ソウル大学に入学し、留学中に第88回芥川賞候補となる小説「ナビ・タリ

 ヨン」を書き上げる。執筆のかたわら88年にソウル大を卒業し、この翌年書き上

 げた『由熙(ユヒ)』が第100回芥川賞を受賞する。作家としての飛躍を感じさせ

 る長編小説を構想しながら、1992年に37歳で急逝する。

  『由熙』は、韓国人の女性「私」の視点をとり、在日韓国人二世の在日同胞、つま

 り日本に在留する韓国人「由熙」の姿を描く。留学を目的に渡韓した由熙は、優秀

 な生徒でありながら韓国語を流ちょうに話せない。由熙の下宿先でもある自身の叔

 母の家に居候している「私」は、由熙を妹のように可愛がる一方で、由熙が自室で

 日本語の本を読むなど、韓国語の上達のために最大限の努力を払っていないこと

 に苛立ち、叱責することもある。

  韓国社会のジェンダー格差やシスターフッドなどの問題を繊細に織り込みつつも、

 『由熙』の主題は韓国と日本、韓国語と日本語のはざまを生き、懊悩する由熙の姿

 にある。

  象徴的なエピソードを紹介しよう。大学での試験中、由熙は記述問題で母国を指す

 「우리나라(ウリナラ)」という言葉を書く際に「手が凍りつ」くような感覚を覚え

 る。それは、自身が心から韓国を〈母国〉と思っていないと自覚しているからだっ

 た。何とか手を動かし答案を仕上げるも、由熙は自身を「嘘つき、おべっか使い」

 と苛み、これをきっかけに大学中退を決意する。

  筆者は、拙時評「それを選ぶ指先の欲望」(『小熊座』2022・7)で、ウクラ

 イナ語やロシア語で書かれた俳句の邦訳が文語定型を遵守することは、既存の

 〈俳句らしさ〉に寄りかかるものであり、この邦訳に対する感動がナショナリズムと

 高い親和性を持つことを指摘した。しかし書き手としての筆者は、相も変わらず歴

 史的仮名遣いと文語で俳句を書いている。これを十全に使いこなしたいと思うとき、

 筆者は伝統と接続したいとさえ思っている。筆者の振る舞いはまさに、「嘘つき」

 で「おべっか使い」ではないか。

  由熙が「우리나라」と書くことと、筆者が歴史的仮名遣いと文語を用いることは、

 厳密には異なる。というより、試験中というやむを得ない状況だった由熙に対し、自

 ら進んで歴史的仮名遣いと文語を選ぶ筆者は、由熙以上に自分を苛んでもおかし

 くないはずなのだ。

  だが、読み手としてはナショナリズムに迎合するのであれ距離を取るのであれ、

 伝統への理解は手放せない。例えば、植民地朝鮮時代、多くの朝鮮人俳人は「ホト

 トギス」に学んだ。故に、伝統への理解なくして彼らの俳句を読解することはふつう

 不可能だ。

  『鷹』11月号の石川休塵の自句紹介(五句)にも触れよう。在日韓国人である石

 川は〈戸籍謄本吾には有らず卒業す〉の解説で、人生で体験した「屈辱」を記し、

 〈冴え返るわが本名やイムヂョンギ〉の解説で、この本名を「棄てた」と記してい

 る。書かれている内容を超え、言葉そのものに向かうとき、彼の俳句を、俳句の育

 んだ〈伝統〉抜きに語ることはできない。

  しかし李良枝を知った今、自らが歴史的仮名遣いと文語を使う意味に懊悩しない

 わけにはいかない。結果的に歴史的仮名遣いと文語を使い続け、伝統との接続を

 試みるだろうとしても。そしてこの懊悩に、書き手の自覚と読み手の振る舞いは分

 別できる/するべきであるなどという簡単な結論は無用の慰めに過ぎない。生涯言

 葉と言葉のはざまで悩んだ人々を知った以上、赦しを乞うような卑怯な行為だとして

 も、この懊悩を引き受けずにはいられないのだ。




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