小 熊 座 俳誌 小熊座
高野ムツオ 佐藤鬼房 俳誌・小熊座 句集銀河星雲  小熊座行事 お知らせ リンク TOPへ戻る
 

 小熊座・月刊


   2022 VOL.38  NO.451   俳句時評


    俳人の晩年、最期の俳句 石井露月(2)
     奥州に生き、確かな俳句を詠む

                         渡 辺 誠一郎


  昭和3年9月18日に、石井露月は故郷秋田市雄物(旧河辺郡女米木(めめき)村)

 の地で亡くなった。享年56歳であった。露月は農家の二男として生まれ。家には発

 句を詠む祖父がいた。

  露月は、佐藤紅緑、河東碧梧桐、高浜虚子らとともに子規門下の四天王の一人と

 もされ、子規の人物評は、「鬼才」である。

  露月は、21歳の時に文学を志し、上京する。やがて子規の斡旋で「小日本」や

 「日本」などの記者を勤め、俳句を子規の下で励む。しかし東京での生活が順調に

 続くと思えたが、若い時から患っていた持病の脚気が悪化してくる。このため、療

 養のために二度の帰郷を余儀なくされる。この病を抱えたこともあり、医師の道を選

 ぶことを決意し医学に励み、明治31年には、医師試験に合格。翌年は無医村であ

 った故郷に医院を開業する。特に、当時地元民を悩ませていた伝染病の治療に専

 念する。

  一方句作にも励み、俳句の道を捨てることはなかった。俳句や文章を、「秋田新

 聞」や「ホトトギス」に寄稿している。明治33年には、島田五空(能代生まれ)、

 佐々木北崖(三種町生まれ)らと俳誌『俳星』(命名・揮毫は子規)を創刊し、秋田

 における日本派の普及に努める。

  露月の作風は、「奥羽調」と称された。露月自ら、「奥羽にはなぜ壮大、雄渾と云

 ふ様な一派の俳風が起こらないのであろうか」(「俳星」明治33年11月号)と述べ

 ている。28歳の時の言葉であるが、檄文のようで、少々の気負いが感じられる。

 露月は風土の特徴を、「天文」と「地理」であるとして、奥羽については、景観的に

 も荒涼として天候も激変しやすいことから、その山は甲冑を着ているかのようであ

 ると。これに対し、京の山は「布団」を着て寝ているようだと。なんともユーモラス

 な把握である。奥州の歴史をさかのぼり、みちのく奥州の俳句表現を、「蝦夷調」

 とし、さらには、安倍貞任まで引き合いに、「安倍貞任調」の俳句の出現すら期待

 するのである。

 「蝦夷調」とは面白い。岩手を出自とする佐藤鬼房は、自らを蝦夷の裔とも自任して

 いた。「安部貞任調」の言い方にしても、やはり東北という地、その歴史を一身に背

 負って句作に励む覚悟が見える。 

  一方露月は、俳句のみならず地域の様々な活動に精力的に関わった。それは今

 日での地域主義の姿勢である。地域の住民が、主体的に自らの地域の課題を解決

 し、独自性を高める活動である。露月は地区の図書館「米人鬼文庫のち露月文

 庫」(明治36年)の創設に取り組み、村の青年の交流の機会を作るために、「夜学

 会」(明治42年)を作る。明治39年には、村の青年会を組織して自ら青年団長と

 なる。さらに亡くなるまで20年間にわたり村会議員として、地域の課題に取り組ん

 でいる。高浜虚子は、明治43年に女米木の庵を訪れ、露月に11年ぶりに再会し

 ている。そのとき、東京の方向すらも失念してしまった露月へは、憐憫に近いまなざ

 しを向けている。これに対して、露月は田舎には田舎なりの刺激―虎杖の戦ぎや

 川のせせらぎなども大いに刺激的と。―があると虚子に手紙を書き送っている。虚

 子には露月の置かれた現実を十分理解することはできなかったように思える。一方

 露月には、地域にしっかり根の張って生きているという確かな手応えと誇りがあっ

 た。露月の俳句をいくつかあげる。

   大江戸の一夜の雪に出初かな

   藪入の流行目にさす藥哉

   山遊び我に従ふ春の雲

   凩に晝行く鬼を見たりけり

   夜窃かに生海鼠(なまこ)の桶を覗きけり

   雲雀揚がる武蔵の国の真中かな

   月の暈牡丹くづるゝ夜なりけり

   我庵ハ冬を構へず山河在り

   草枯や海士が墓皆海に向く

   尚白し花野にさらす馬の骨

   花野行く耳にきのふの峡の声


  これらの句を見ると、確かな生活感と奥州の風土のなかでスケールの大きな世界

 を詠んでいることがわかる。しかし若い頃の「奥羽調」などにとどまらない、現在で

 も十分通じる新しさを読み取ることが出来る。「夜窃か」の飄逸な世界は愉快だ。

 一方、「馬の骨」の句は鮮烈で魅力的な世界である。「我庵」の句の「庵」とは、露

 月の病院のことである。露月は、冬囲いをすれば病室内が暗くなり、玄関も患者が入

 りにくくなるために、これを出来るだけしなかったという。露月は吹雪の中でも、馬

 に乗って診察に出掛けた。奥州の厳しい冬の山河を背に、地域医療を担う医者とし

 て、さらには俳人としての気概がこの句からは伝わってくる。亡くなる2年前の昭和

 元年11月、54歳の句である。大正当時の日本人の平均年齢は43歳であることを

 考えると、最晩年である。51歳の時には、新たな俳誌「雲蹤」を創刊するととも

 に、大正13年には子規の23回忌を自宅で営んでいる。さらに北海道や佐渡に足

 を運ぶなど、充実の日々を送っている。しかし、昭和3年、地元の小学校の校長転

 任送別会で倒れ、帰らぬ人となる。露月自身は、いわゆる晩年という境地にはなか

 った様に思う。そう思う余裕はなかった。現役のまま人生を終えたのだ。

  先に挙げた「花野」の句は、「俳星」昭和3年12月号、「露月先生追悼号」に掲

 載された。「峡の声」が山の精霊の声が、あたかも幻聴のように聞こえてくるよう

 だ。景が大きく「花野」という舞台装置が華やかで、露月の最期を飾るにはふさわし

 い一句に思える。もちろん、露月はこの句を絶筆として詠んだわけではない。しかし

 この句は単に「奥羽調」で括れないもっと拡がりのある世界であり、気負いのない豊

 かな詩想が込められている。

  秋田において露月研究をしている伊藤義一氏は、露月の世界について、「子規の

 句を奥羽調のもと、自然と生活に立脚して最も骨太に発展させた」(『俳人露月 天

 地蒼々郷土を愛した鬼才』と述べている。しかし同時に露月の世界からは、現代の

 俳句が持っている清新さが伝わってくる。そして露月は地域に身を置き、俳句、そし

 て、医業をはじめ地域の社会活動に生涯にわたって誠実に関わったことは重要なこ

 とだ。それゆえ、医師として地域人として地域に根ざした「確かな俳句」を詠むこと

 が出来たのだ。現在も、地元では顕彰の俳句大会はもとより、資料の保存に継続

 的に取り組み、今なお敬愛されている。雄和図書館には資料展示室があり、書斎

 も大切に保存されている。露月の俳句世界は、今日、改めて評価されてしかるべ

 きだと思う。




                    パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
                copyright(C) kogumaza All rights reserved