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 小熊座・月刊 
 


   鬼房の秀作を読む (142)    2022.vol.38 no.446



         手の窪に暮しの灰汁(あく)と花びらと

                                鬼房

                        『半跏坐』(平成元年刊)


  昭和62年、鬼房68歳のときの句。この二年前に「小熊座」を創刊しており、前

 年には胃を切除する大病を患うなど、大変な状況であったと思われる。「暮しの灰

 汁」は、日々の生活の中で出てくる不要で好ましくないもの、更には思い通りになら

 ないもどかしさや不快なものも含まれるか。そのような感情が、美しさの象徴の桜

 の花びらとともに手の中にある。「手の窪」の措辞は、「手の平」に比べてぐっと

 深部で包み込むような印象を放つ。鬼房にとって「暮しの灰汁」と美は相容れな

 いものではなく、同時に存在するということだろう。戦争や仕事、闘病など、さま

 ざまな体験を経た人生観のようにも感じられる。

  このような鑑賞は、一句の主人公が作者自身であることを前提としている。特に

 「佐藤鬼房」という強烈な個性の前では、伝えられる境涯や人間性が付きまとう。鬼

 房俳句には詩情横溢な句がたくさんあるが、この句は「暮しの灰汁」が生なように

 思われ、読みを限定させるような気もする。もっと衒いのない表現がないかと思っ

 てしまう。

  しかしここで別な読みを考えてみる。これは仏の手ではないかと。美しい桜の花も

 散ってしまう。暮しにも浮き沈みがある。それら雅も俗もすべてをひとつの手中に受

 け止める存在を、鬼房は感じていたのかもしれない。深読みではあるが、句集名は仏

 語の「半跏坐」である。

                          (永瀬 十悟「桔槹」)



  「一労働者として、傷つきつまづきながらも、自分なりの思想を持ち理想をかか

 げ、ヒューマニズムを基調とする俳句の制作に従って来た」鬼房。「パセテックな原

 像の表白」の作品も多かった。岡井隆は「鬼房のいい読者ではない。それどころか、

 鬼房の代表作には、いつも反撥して来た」と記す。そして、鬼房自身が語る「範疇

 を、本当はつきぬけている」と続けている。岡井隆は、さらに同じ時代を生きてきた

 同士だという実感を鬼房に感じると述べている。

  鬼房の身体的表現。掲句であれば、〈手の窪〉。啄木の如くじっと己の手を見つめ

 る。「愚直」の斧を握る手である。そこには、〈暮しの灰汁〉がある。灰汁は、生活

 に必要なものの個性を持った不純物として取り除かれるものでもある。愚直なる

 鬼房。

  掲句は1987年の句。年譜を見ると1985年に小熊座創刊。86年には胃切除

 のため入院。大手術の翌年の春である。鬼房のその激変の時期を乗り越えるには、

 確固たる信念を貫き通すことが必要となる。その灰汁を手に握りしめ、一方の手には

 花びらをのせる。暮しの灰汁と花びらの結合。作句時は68歳。それまでの己を省み

 ての、無骨さとまた春の華やかさを併せ持つ心象風景。己への下降と自然への上昇

 とが調和する。散文的表現の中に己を恃みつつ、回復した肉体と風土の自然への感

 謝が込められている。

                              (後藤よしみ)