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 小熊座・月刊


   2022 VOL.38  NO.440   俳句時評


      切れのある句とアニミズム

                           及 川 真梨子


  金子兜太が言っている「俳句はアニミズムだ」ということは一体何なのだ?という

 のが私の疑問の端緒だった。個人的には、「なんでも神様」、「自然はありがたい

 もの、拝むもの」という感覚があったが、これは、読者・作者である自分よりも、俳

 句に読み込まれる対象が目上である、という状態である。

  しかし、兜太のいうアニミズムは「上下関係の生まれない擬人化」である。自然が

 神様であるなら、我々もその一部。自然と我々は同等の存在であり、なおかつ自然も

 我々も神である。どちらかを持ち上げたり、引き下げたりはしない。あるいは、敬意

 を払うというとき、大体の人は身分の上下を想定するが、立場の対等なまま敬う姿

 勢ということを考えた。

  さて、兜太は、いとうせいこうの対談『他流試合―俳句入門真剣勝負!』(講談

 社、2017、文庫にて改題)で次のようなことも言っている。

  「アニミズム以前の原始信仰の形態の中で、アニマティズムというのがあるでしょ

 う。アニマティズムでは(中略)全体に精霊を感ずるんです。それを個々のものに感

 ずるようになるとアニミズムになる。」

  宗教学的な分類がこの通りかはわからないが、兜太においては、対象の把握につ

 いて「個々のもの」という感覚を明確に認めている。

  以前も引用した兜太の言に次がある。

  「俺なりの理解では、アニミズムというのは個々のものに具体性を感ずるというこ

 とがひとつの条件だと思うんです。それからその個々のものに、霊魂とか精霊とか言

 うものを感ずる、それがふたつめの条件だと思う。」

  これをほぐせば、アニミズムとは、「個々のものにある具体性と、それぞれに宿る

 霊魂・精霊を感じること」である。そして「俳句はアニミズムだ」とすれば、三段論

 法的に「俳句とは、個々のものにある具体性と、それぞれに宿る霊魂・精霊を感じ

 ることである」と書くことができる。

  この点で俳句の特性である「切字は意味を多重化する」ということが、「俳句はア

 ニミズムである」ことにも大きな関わりを持ってくる。

  切れの機能については、兜太・せいこうが次の言葉を残してくれている(カッコ内

 は筆者注)。

  「(せいこう)切れは音の上では鋭いけれども、意味の上では、物自体までも主体

 になってしまうような機能がある。曖昧というよりむしろ「多重化」といったほうが

 いいような気がする。」「(兜太)大げさに言えば、書かれているすべてが一種の霊

 感を持つというか、精霊をおびるというか、そういう感じ。」「(せいこう)擬人

 化されるというか。」 「(せいこう)いろんなものが、同じ立場になっちゃう。」

  切れは意味の直接のつながりを断ち切り、一つ一つを独立させる。句で提示される

 ものが個々のものとして立ち上がってくるのだ。それは、アニミズムにおいて対象を

 個々のものとして把握することと共通している。自然が神様で、我々もすべて同等の

 存在であるという感覚は、俳句の切れの機能によってより強められるのだ。

  さらに、切れのある句の鑑賞とは、独立した二つの言葉が読者の中で重なり合い、

 その響きを味わうものだ。重なり合う響きとは、身も蓋もなく言ってしまえば、二つ

 の対象を比較したときのズレと一致である。さらに一致部分が小さく、ズレが大きい

 ほど、その意外性が魅力となることが多い。

  その点で、対象の「個々のものにある具体性」が似通ってしまっては、句の力が弱

 くなってしまう。具体性の存在感は、目に見えないものよりも強い。そこが近づけ

 ば、意外性という魅力がなくなり、当たり前のことが描かれてしまう。その意味でも、

 俳句では素材の距離の「近さ」に神経質になるのではないだろうか。

  具体的な素材が大きな距離を取るときに、重なり合ってくる部分とは何なのか。それ

 は「それぞれに宿る霊魂・精霊」の方、いわば精神性の部分なのではないだろうか。

  切れのある二物衝撃の句の鑑賞は、俳句に馴染みのない人にとっては難しい。それ

 は、異質なものが重なるといった、矛盾したことが行われているからである。それが、

 俳句に馴染みのある者にとってそう難しくないのは、独立した二つの対象において、具

 体性と精神性を分けて捉えること、その上で具体性の方を即物的に捉え、それぞれを

 認識し、精神性の方の一致部分を捉えるという複雑な読み方に慣れているからである。

  提示された言葉の具体性・精神性を分けることも、形を持たない精神性の共通点を

 探ることも、非常に特殊な言葉の捉え方ではないだろうか。少なくとも小説や身近にあ

 る散文で意識することはない。「詩」の言葉の大きな特徴と言えるだろう。

  ここまででやっと、兜太の言う「俳句はアニミズムである」ことが、なんとなく整

 理できてきた気がする。

  ただ、身も蓋もないことを言うが、別に俳句はアニミズムじゃなくたっていいの

 だ。正解不正解があるわけではないし、今回書いたことに全然当てはまらない良い句

 も山程ある。しかし、兜太はアニミズムにこだわって、その方向で俳句を捉えようと

 していた。それは、俳句をアニミズムとしたときに可能となる、わくわくするような

 世界が見えていたからではないだろうか。

  「俳句はアニミズムである」ことも、魅力的なゴールの一つである。対象の神性を

 捉え、俳句という形式で切り取る。それが成功すれば、それだけで詩人として最高の

 気分だ。しかし、さらに次の到達点を兜太とせいこうが示してくれている。それが、

 俳句で「一回性」を表現することである。

  これが本書で一番衝撃を受けた部分なのだが、紙面が尽きたため、後日に譲りた

 い。




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