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 小熊座・月刊 
 


   鬼房の秀作を読む (135)    2021.vol.37 no.439



         飢ゑはわがこころの寄る辺天高し       鬼房

                           『枯 峠』(平成十年刊)


  どうして飢えが心の拠り所となりえるのか。一句のテキストのみでは文脈の推測に

 限界が生じる。佐藤鬼房という作家が戦争体験者・従軍者(輜重隊)であるという事

 実を、私はこの句に立ち会う前に知ってしまっていた。もしその情報を得ていなかっ

 たとしたら、上五中七のフレーズを心に深く反芻させることは難しかったかもしれな

 い。しかし、(その他の可能性が類推できなかったために)、飽食の時代において、

 戦時を忘れてしまってはならないという自己に楔を打ち込む句だと解釈した。断

 食をしているのでなければ、平成十年の世に本当の意味で飢えているわけでは

 ないだろう。空腹状態を通して飢餓を回想しているのではないか。「寄る辺」とい

 う言葉が、必ずしも正のイメージに固着していないことがこの句の眼目である。

 鎮静化されきることのない精神的な痛みが基底にあるからこそ寄る辺と言い切

 れるのではないだろうか。澄み渡り〝馬肥ゆる〟秋空は過去とつながる。空には

 青という色以外存在していないと想像した方が、空腹の空虚感と響き合う。心を

 詠むことで、寒色の印象で一句が統一されたと思われる。

  何かを忘れたくないという、絞り出すような内省的な表明には、読者としてまずは

 沈黙をもって応えるしかないと思う情動や行為にすら影響を及ぼしうる、鈍重かつ訴

 えかける力の強い作品である。

                     (黒岩 徳将「いつき組」「街」)



  『枯峠』は鬼房の第十二句集で平成十年の発行。もちろん、日常が安定し、俳壇で

 の立場も一層磨きがかかった時期であったと思われる。だから「飢ゑ」は食糧にもこ

 と欠いた戦後とは違い、精神的な「飢ゑ」を意味するのであろう。

  この『枯峠』に限らないが、鬼房には「自分は何者なのか」「何者になろうとする

 のか」を自問する句が多い。

   もしかして俺は善知鳥(うとう)のなれのはて

   むきだしの岩になりたや雷雨浴び

   死に場所のない藻がらみの俺は雑魚(ざこ)

  そして晩年意識がますます強くなってきている様が読み取れる。たとえば、

   俺は疲れた秋も半ばのすひかづら

   鰭酒や小者で終るそれもよし

  しかもこの時期、山口誓子、野澤節子、細見綾子、平畑静塔らと永別している。当

 然、みずからの句にも「死」の言葉が頻出して来る。そのような背景のもと、掲句は、

 精神的な飢えをこと上げし、さらなる高みへと自らを鼓舞する句であると解釈で

 きる。「天高し」がその気持ちを表明している。具体的な「モノ」が出てこない想念

 の句であり、それを承知の上で、上昇志向を示す「天高し」を配合した。物質的

 に充足した日常にあって、それではいけないと自分に言い聞かせてている。鬼房

 らしい矜持の一句である。

                                (栗林  浩)