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 小熊座・月刊


   2021 VOL.37  NO.432   俳句時評



            季語にある肯定の強制力

                           及 川 真梨子



  「俳句はアニミズムだ」という金子兜太の言葉がある。今回読んだ『他界』やいとうせいこ

 うとの対談にもこれを熱く語る兜太の姿がある。俳句がアニミズムということには、私もまっ

 たく賛成派で、自分の好きな句や作っていてうまく行ったと思う句には、少なからずこの感

 覚がある。

  だが、この「俳句はアニミズムだ」という定義の、なんと力強く、なんと曖昧なことか。私自

 身その意味を捉えてはいないが、今回はその鳥羽口に触れながら、一体兜太が何を示し

 ていたのか、自分自身の考えを整理できたらと思う。

  アニミズムという言葉を紐解くと、イギリスの人類学者エドワード・B・テイラーによって定

 着し、原始的な宗教形態を捉えるために使われた、と大抵の文献で触れられている。テイ

 ラーは、宗教がアニミズムから多神教へ、多神教から一神教へ発展していくと論じたそうだ

 が、研究が進む中で原始的な信仰にも一神教があることなどが発見され、テイラーが使用

 した意味・論説においてのアニミズムは現在ではあまり使われていない。むしろさらに曖昧

 に、便利に使われているのがアニミズムという言葉なのである。この部分でも、兜太の提

 唱する俳句とアニミズムの関係が、具体的に捉えづらくなっている一因と言えるだろう。

  アニミズムが指すところの意味は「森羅万象あらゆるものに霊魂が宿るという考え」という

 のが、現在は一般的だろうか。もう少し詳しく言うと、テイラーの分析では、世界の(彼の言

 う)原始的な宗教では、共通する二つの教義があると言っている。一つは、個々の生き物

 の魂が、死んで肉体がなくなった後も存在し続けるということ。もう一つは、神と呼ばれるよ

 うな強い霊的存在は、この世である物質界の出来事や、死後における人間の暮らしに触

 れられるということである。

  さらに追加して、フランスの哲学者、宗教史家のフレデリック・ルノワールのシャーマニズ

 ムの説明が興味深かった。彼は、精霊との交渉、占い、治癒、宗教儀式を行うシャーマン

 が、あらゆる鉱物、植物、動物、すべての星に、人間と同じく生命力が具わっているという

 アニミズム的原則の世界観にあるとしつつ、アニミズムあるいはシャーマニズムが、自然と

 超自然、目に見えるものと見えないもの、俗なるものと聖なるものとの区別を廃して、総括

 的に世界を説明する体系である、と説明している。

  つまり、アニミズムの世界観の中には、①森羅万象に霊魂があること、②それらは死ん

 でも魂が残ること、③強い霊は世界に影響を及ぼすこと、④霊魂と肉体(物質)は区別なく

 世界に存在していること、が含まれている。もちろん、それぞれの文化・信仰の中で詳細は

 変わるだろうが。そして何より忘れてはならないのは、⑤アニミズムは自然界に起こる事象

 への信仰だということだ。

  なかでも日本は、現代もアニミズムが色濃く息づいている国と捉えられているようだ。樹

 齢の数百年の大木に注連縄を張って御神木として拝んだり、御神体が神社の中になく背

 後の山であったりする(浅間神社の御神体は富士山、奈良の大神神社の御神体は三輪山

 (に姿を変えた大物主大神)など)。伐採した樹木を弔う草木塔や、踏まれる敷石のための

 敷石供養の碑などもあるという。前者の崇拝は神性存在とみなされるような強い霊性への

 信仰と言えるだろうし、後者は霊性を持つ自然物へ人間と同様の供養を施していると言え

 る。また、西洋との比較でよく語られることだが、「人間の力で自然を克服しよう」とした西

 洋文化と比べて日本は、豊かな自然の恵みをもらい、自然災害に対しては厳しさや恐ろし

 さにひれ伏すとして、自然に順応していく文化・感覚が醸成されていったという。日本人の

 無意識の中にあるアニミズムという感覚は、自然を敬い共生していく形として根付いていっ

 たのだ。

  俳句とアニミズムを考える時に、真っ先に思うのは季語の存在である。日本人に「自然を

 敬い共生していく」という感覚があるならば、俳句の季語に相対するときも、我々は同じよう

 な感覚を得るのではないだろうか。つまり、季語を使った俳句を読む時、私達は無意識の

 うちに、そこに書かれる自然物への尊敬や崇拝、尊重の念を持ちはしないだろうか。少なく

 とも私は全くそのとおりだった。兜太の「俳句はアニミズムだ」という言葉から、自分自身の

 句の鑑賞における、肯定への偏向に気付かされたのである。

  俳句にアニミズムがあり、日本的アニミズムに自然への信仰があるとする。すると、季語

 という素材を読む時、それへの蔑視とか否定的な展開は自ずと合わないということになっ

 てくる。信仰とまでは行かなくとも、自然が自分と同じように、それぞれ懸命に生きているも

 のと感じた場合、それをどうして否定の素材として使えるだろうか。また、あるものをあるが

 まま即物的に捉えるということは、肯定の一つの形であり、健康的な思考の一つでもある。

  俳句で若さやエゴから生じるような病んだ精神を読み込もうとしても、それらを治してしま

 うような方向性が俳句にはあるのだ。その意味で、思う存分自分の闇を吐き出しても俳句

 は耐え得ると安心してもいいし、自分のネガティブな感情や世界への否定を詩で表わした

 いならば、俳句、特に季語は方法として合わないといえるかもしれない。作者が意図した暗

 い方向に受け取ってもらえない可能性や、無意識のうちで読解にアニミズムを求める読者

 との温度感が、言語化できない部分で生じてくる。

  季語を信仰なしに扱えるか、それは個々人の感覚の自由である。しかし、日本という風

 土で無意識・強制的にある感覚だとしたら、自らがそれを抜け出し、読者にも同じように読

 んでもらうには、なにか独自の工夫が必要なのかもしれない。しかしともすれば、現代を生

 きる我々の意識に、どれだけのアニミズム的価値観が残っているのだろうか。だが、それ

 があると信じる限り俳句は、アニミズム的感性を発揮するときに、最も輝く詩形であるかも

 しれない。

  と、ここまで、「俳句はアニミズムだ」ということを、日本人のアニミズムへの信仰心の点

 から、個人的見解を整理してきたつもりである。ところが、金子兜太の言った「俳句はアニ

 ミズムだ」という言葉は、どうやら違う温度感の解釈のようなのだ。マンガの引きのようにな

 ってしまったが、紙面がつきたため、それについては後日に譲りたいと思う。




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