小 熊 座 俳誌 小熊座
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 小熊座・月刊 
  

                
                 秀句の泉 ≪河北新報掲載≫

                                及川真梨子


  ≪九月≫


№234   秋ふかく鏡の君と入れかはる     堀田 季何(1975~)

  秋も半ばを過ぎて冬へ近づく日々に、鏡に映る君と入れ替わる、そんな不思議な

 句です。「君」という表現は、自分以外の他者のことです。鏡の中の私は私そっくり

 ですが、同じ意識、同じ魂を持つとは誰も考えません。私は私一人しかいないので

 すから。しかし同じ姿の「君」と入れ替わったとして、誰が気付くでしょうか。もしかし

 てすでに入れ替わった私が、自覚なしに現実世界で生きている、そんな可能性もな

 いとは言い切れません。              句集『人類の午後』より。


№233   流れ星私はゆつくりと動く        細谷 喨々(1948~)

  因果関係のない語を並べて作る俳句を、二句一章や二物衝撃と言います。二つ

 の言葉の本質的な相似や正反対な部分を探し、コントラストを楽しむ句です。流れ

 星は秋の澄んだ空をよぎる光です。対して地上の私はゆっくりと動いています。天

 と地にある物、一瞬とゆっくりという時間が対比されます。天空の流れ星のように私

 は速く動きません。しかし、私は私の時を噛み締めて大切に生きているんだ。そん

 な気持ちが込められているでしょうか。       句集『父の夜食』より。



№232   星がおちないおちないとおもう秋の宿
                         
金子 兜太(1919〜2018)


  「秋の宿」は旅行先の宿でも、自分の家とも受け取っていいようです。風情のある

 宿場に休み、澄んだ夜空を見上げると満天の星が広がっていました。作者は光の

 強さや近さに落ちてきそうだと感じたのでしょうが、物理的にはあり得ず「星がおちな

 い」と言い切っています。しかしそれは本当でしょうか?美しい空を見続けるうちに

 確信がゆらぎ、「おちないとおもう」という表現が重ねられました。ひらがな表記から

 心のゆれが伝わります。                句集『旅次抄録』より。



№231   颱風過ぽつんと畦に婆がゐる     橋場 雅秋(1932~)

  「台風過」は台風が過ぎ去ったあとを指します。暗雲と豪雨の後は雲が一掃され、

 空は晴れ渡りますが、大地はそうではありません。街への被害や、田の稲が広範

 囲で倒れることもあります。畦道にいるお婆さんの具体的な様子は分かりません。

 被害に対する奮起か落胆なのか、いずれにせよ荒れ狂う自然を受け入れ、今日を

 生きようとする姿ではないでしょうか。荒れた大地や青空の広さと、小さくも力強く生

 きる人間の対比と読みたいです。              句集『蒼穹』より。


№230   いつしかに友でなくなり秋の風   辻田 克巳(1931~2022)

  「友でなくなり」で意味を区切れば、友人との親交がだんだんと途絶えてしまった

 か、人柄を疑うような出来事があって疎遠になったのかもしれません。友情という

 温かな繫がりがフェードアウトしてしまった感傷に、冷ややかな秋風が通り過ぎてい

 きます。あるいは一句を繫げて読めば、友でなくなったのは秋風です。幼い頃は風

 を友として野を駆け回っていましたが、大人になると、寒い季節へと移りゆく風に少

 し距離を感じてしまいます。           句集『春のこゑ』より。



№229   小鳥来て巨岩に一粒のことば   金子 兜太(1919~2018)

  象徴的な意味合いの強い一句です。小鳥は秋の季語で、大陸からの渡り鳥や、

 山から里に下りてきた色とりどりの鳥たちを指します。季節を移り、食べるために

 移動する鳥たち、それらが来た巨岩の過ごす時は悠久です。一粒のことばは、単

 純に文字が彫られているのか、小鳥たちの鳴き声が岩にこぼれているのか、岩が

 魂を得て話し始めたのかもしれません。もしくは、作者の感性が自然の中に記すべ

 きことばを見いだしたのではないかと思います。

                              句集『東国抄』より。



№228   秋風やおそろしきほど人並び    石田 郷子(1958年~)

  何かの行列に出くわしたのでしょう。人々は同じ方向を向いて連なり、ときには折

 り返して長さを整えられています。列のどこが最後尾なのか、そもそも何の店に並

 んでいるのかも、実は分からないのではないでしょうか。目に映るのは、恐ろしいほ

 どの人数が集まり、ルールを守って静かに佇んでいる様子です。大勢の熱気も感じ

 られる非日常の景色の中で、作者の感覚が捉えたのは、間を吹き抜ける秋風の冷

 たさや寂しさだったのでしょう。           句集『草の王』より。



№227   星飛んで星飛んで星飛んで黙    稲畑廣太郎(1957年~)

  歳時記で「星飛ぶ」は、流れ星の別の言い方です。リズミカルに3回、同じ言葉が

 繰り返されますが、次々と星が流れていく流星群を描写しているのかもしれません。

 「黙」は「もだ」と読むことができます。沈黙や無音を指しますが、「黙る」ということ

 は人の声が途絶えることです。流星のピークが終わり、人々が去ってしまった静けさ

 でしょうか。もしくは、まだ光は流れるだろうかと期待で息を詰めている、その無音か

 もしれません。                    句集『八分の六』より。




  ≪八月≫


№226   木も草も世界みな花月の花    上島 鬼貫(1661~1738)

  木や草を指して、全部が花だ、月の花なんだと詠っています。月の明るい夜に、草

 の先が光を反射してきらきらと揺れていることがあります。見上げれば木の葉も見た

 ことのない色で揺れ、世界全部が月の光を灯して、花が咲いたような幻想的な風景

 をつくっているのです。ところで「世界」という言葉は仏教用語として日本に入ってき

 たそうです。作者は江戸時代の俳人。「世界」が指すニュアンスは今とは違うのでは

 ないでしょうか。想像が広がります。           『鬼貫百句』より。



№225   先達のありて群れ発つ稲雀      志摩 陽子(1941年〜)

  秋に重く頭を垂れた稲穂をついばむのが稲雀です。最初に数羽が見回り、それ

 から群れがやってくるそうですから、この句もそのことを言っているのでしょう。先達

 といえば、学問や技芸の道の先輩や、案内役のことを指します。通常は我が学問

 の道に先達ありと、自分にとって一人か数人という印象がありましたから、後進が何

 百となると、数の多さに驚いてしまいます。この数の力というのも、自然界を生き延

 びる知恵の一つなのでしょう。               『風の行方』より。



№224   滝透明や皮より葡萄出づるとき    野名 紅里(1998年〜)

  特に注目したい物から始め「や」で詠嘆するという書き方は、俳句ではお馴染み

 の方法です。しかし様子を表しますが実体のない「透明」という言葉は、「や」で提示

 するものとしてインパクトがあります。透明な物は何か、読んでいくと分かりますね。

 濃い紫色の皮に包まれた葡萄が、ぷちっ、つるん、と出てきます。中身は半透明

 の薄緑色です。実の色が最も透き通り、最も美しいのは、暗い色をした厚い皮から

 出る、その瞬間なのです。              句集『トルコブルー』より。



№223   頑張ってみるけど今日は猫じゃらし  神野 紗希(1983年〜)

  もこもことした見た目は犬の尻尾のようで、狗尾草とも言います。原っぱで気持ち

 よさそうになびいている草です。さて今日の私もそんな感じ。一応頑張ってはみるけ

 れど、思いや考えに体や心の調子がついていかないときがあります。くたっとして

 風に吹かれるばかりなのか、気が散って遊んでしまうのか、どっちにしろ建設的なこ

 とはできそうにありません。今日の私は猫じゃらしの私と、いっそ開き直ったほうが

 良い日になりそうです。               句集『すみれそよぐ』より。



№222   コスモスや空の奥から風あふれ   土屋 遊蛍(1944年〜)

  コスモスは風がよく似合う花です。茎は細くて長く、葉はさらに糸のような形で、頂

 点にある花は軽やかです。強い風には大きく全体をなびかせますが、そうそう倒れ

 ることはありません。群生が多く、風を受けて一斉に揺れる景色は爽快ですね。空

 の奥も風も目に見えませんが、そこから風があふれてくると詠んでいます。空を向い

 て咲くコスモスも、一緒に風の生まれる場所を見ているのかもしれません。そこで

 は空の青だけが広がっています。            句集『星の壺』より。



№221   青大将その重心を山に置き   和田 悟朗(1923〜2015)

  以前、蛇が直角の壁を越える様子に、しばらく見入ったことがありました。五十セ

 ンチほど植え込みの囲みがあり、蛇は体を垂直にし、重心を体の真下に置いたま

 ま、慎重に慎重に上へと進んでいました。筋力の強さと骨の精緻さ、繊細な動きに

 感動したものです。この句の青大将も、尾の重心を山に置き、里に向かって身をも

 たげているのかもしれません。実際の重心だけでなく、蛇の生きざまとしての重き

 も、すみかである山にあるのでしょう。        句集『即興の山』より。



№220   夏帽子うつむいて鼻うつくしき    大串  章(1937年〜)

   夏帽子は総称で、麦わら帽子や男性用のパナマ帽、登山帽などいくつか種類が

 あります。しかし共通するのは風通しのよい素材で、強い夏の日差しを避けるつば

 があることでしょう。この句の帽子にも広いつばがある気がします。うつむいて目元

 が隠れ、帽子の影から鼻が見えたとき、作者は普段思っても見なかった鼻筋の美

 しさに気付きました。もはや本人の美醜は関係ありません。帽子と鼻だけが描かれ、

 表情の見えない上品な美しさがあります。        句集『天風』より。



№219   絶対に泣かない迷子西日中     今井  聖(1950年〜)

  いつまでも沈まない夏の夕陽の光の中です。迷子を案内所へ連れて行くところで

 しょうか。子どもは不安に違いありませんが、きっと口を結び涙をこぼしません。も

 ちろん、親とはぐれたことを気にしない元気な子も「泣かない迷子」です。しかしこの

 句を読んで、ぐっと涙を我慢する子が目に浮かぶのは、辺りを西日が照らし出して

 いるからでしょう。日中の暑さの残る時間、容赦のない西日には「こらえる」という感

 情が合います。             句集『バーベルに月乗せて』より。



№218   まつすぐな道でさみしい     種田山頭火(1882~1940)

  季語にあたる言葉がなく、五七五から大きく外れる、無季、自由律の俳句です。

 昭和四年の句ですから、托鉢をし、句友を訪ねながら旅を続けていた頃です。山

 頭火の句は侘しさや悲しさを感じる句が多いですが、この句ではストレートに「さみ

 しい」という言葉を使っています。ただの直進の道ですが、ひたすら独りで歩かねば

 なりません。風景も変わらず、曲がり角の変化もなく、交じり合うことのない寂しさ

 が描かれています。             句集『種田山頭火全集』より。




  ≪七月≫


№217   ひと食ひし淵より螢湧きいづる    眞鍋 呉夫(1920〜2012)

  淵といえばただの川の流れではなく、地形や川の湾曲によって流れが滞り、底ま

 での深さがある所です。覗いても川底が見えなかったり、浅く見えても思いがけず深

 くなっていたりします。水難事故で亡くなった人がいたのでしょう。人を食ったと言わ

 れる淵ですが、ホタルが湧き出すようにたくさん飛んでいます。それは亡くなった人

 の魂でしょうか。もしくは、人が死のうと自然は変わらず命を満たし続けている、そ

 んな情景かもしれません。                  句集『月魄』より。



№216   七月の水のかたまりだろうカバ  坪内 稔典(1944年〜)

  作者は大のカバ好き。カバは茶色い皮膚にどっしりとした体で、重さは千五百キロ

 にもなるといいます。しかし「水のかたまり」と比喩されると、透明で質量がある美し

 いもののように感じますね。七月という時期はイメージが難しいです。梅雨時期の水

 なら濁流となり、カバの見た目に近いかもしれませんが、それよりは夏の川の透明

 感のある大きな流れ、時には勢いをもって流れていく様子のほうが、この句には合

 うような気がします。                  句集『水のかたまり』より。



№215   滝をみたやつ立琴を一つづつ持って帰る
                          細谷 源二(1906〜1970)

  ぶっきらぼうに「滝をみたやつ」と言い放ちますが、続くのは見た人が立琴、すな

 わちハープを持っているということです。実物では不自然なので、きっと心の中にあ

 るのでしょう。滝を見れば心に美しいハープが現れ、帰り道の途中でも、家に着いて

 からも、滝を思い出せば麗しい音を奏でます。それは一人ずつ違う音色で、端的

 に言えば感動というものに違いありません。破形の句ですがベースとなる七五調の

 リズムが心地よいです。              句集『細谷源二全集』より。



№214   金亀子擲つ闇の深さかな    高浜 虚子(1874〜1959)

  金亀子の名句の一つです。夜、金亀子が部屋の明かりにつられて入ってきました。

 わずらわしいので捕まえ外に投げますが、放り投げた先の暗闇は思ったよりも深く、

 虫は瞬く間に飲み込まれていきました。金亀子は二センチほどの甲虫で、日の下

 では丸みを帯びた体が金属のようにきらめきます。その羽の光沢と闇の対比もある

 でしょう。井戸に石を投げ込めば水音で深さを知ることができますが、夜の闇はな

 んの音も返してくれません。               句集『虚子全集』より。



№213   白百合や息を殺したあとの呼気    池田 澄子(1936年〜)

  大人になってから息を殺していないな、とふと思いました。かくれんぼで音を立てな

 いようにじっとする時、大嫌いな蜂が来て通り過ぎるのを待つ時、自分の呼吸音に

 気を配るのは、案外子どもの頃の方が多かったようです。久しぶりに息を殺してみま

 しょう。息を止め、音が鳴らぬようにゆっくり吸い、少し止めた後長く長く吐き出す、

 深呼吸とも違う吐く息の感覚は言われなければそうそう注目しません。白百合の吐

 息も同じなのでしょうか。                  句集『月と書く』より。



№212   夏痩せて舌いちまいの重さかな   國清 辰也(1964年〜)

  暑さに体力を削られ、食欲がなくなる時があります。それが続いてだんだん体重が

 減り、げっそりとした状態が夏痩せです。普段から体重が増える方が気になるので、

 夏痩せでもいいと一瞬思いましたが、過ぎたるは及ばざる如しですね。疲れてだる

 くて夏を乗り切れないのもとても困ります。夏痩せの経験はありませんが、この句

 を読めば、口の中の舌まで重く感じ、しゃべるのも食べるのもおっくうになるしんどさ

 がよく分かります。                  句集『1/fゆらぎ』より。



№211   左右より化粧直され祭稚児    森田  峠(1924〜2013)

  お祭りの稚児行列に参加する子どもが、きらびやかな衣装を着せられ、顔に厚い

 おしろいを塗られています。参加人数が多いのか、時間がないのでしょう。大人二

 人の手が子どもの小さな顔に集まり、手早く作業を進めています。子どもは顔をし

 かめているでしょうか、それともきょとんとしているでしょうか。句の中に作者の姿は

 なく、思いも述べられてはいません。しかし切り取った情景の豊かさが読者の想像

 をかきたて、さまざまな表情を見せます。        句集『葛の崖』より。



№210   Tシャツの干し方愛の終わらせ方   神野 紗希(1983年〜)

  句の中に意味の区切れがあると、一方の印象がもう一方に重なりそれまで気付

 かなかった味わいを与えます。関連がなくともどこかに小さな共通点があるもので

 す。ハンガーで干す人も、洗濯バサミで留める人もいますが、同じように愛の終わ

 らせ方も人それぞれです。パリッとTシャツが乾くように、関係をはっきりさせようとい

 う思いもあるかもしれません。ドラマチックな愛の終わりは、案外シャツを干すよう

 な日常の中にあります。                句集『すみれそよぐ』より。



№209   生き死にの死の側ともす落蛍   佐藤 鬼房(1919〜2002)

  命がわずかとなり地面でじっとする蛍か、あるいは既に死んでいるかもしません。

 少なくとも求愛のため川辺を飛ぶ光ではないでしょう。条件が揃えば死後も発光す

 ることがあるそうですから、命を失いながらなお闇にある光かもしれません。同じ一

 つの命を持つ生き物として、人も同じように光を持つことはあるでしょうか。それが

 死者の執着なのか、記憶なのか、希望なのか、見ることができるのは本人ではなく、

 残された人々だけです。                句集『地楡』より。




  ≪六月≫


№208   硝子器は蛍のごとく棚を出づ    山口 優夢(1985年〜)

  季語には季節の情感が含まれますが、「ごとく」などをつけて比喩になると、実態

 がなく季感が薄まるという考え方があります。どちらでもいいじゃないかと思っていま

 したが、この句の繊細なバランスに得心がいきました。厳密に言えば無季の句かも

 しれませんが、比喩の蛍が帯びる夏の気配が器にほんのりとかかり、硝子器自体

 にもなんとなく夏の心地良さがあります。淡い季節感が硝子の透明な光と調和し、

 棚から出す動作が優雅に描かれます。            句集『残像』より。



№207   夏山中祈れば尖る耳二つ    川崎 三郎(1935〜1984)

  夏の山の中、作者は真剣な祈りを捧げています。それは山中のお墓かもしれませ

 んし、神社仏閣や道祖神など神聖な物かもしれません。手を合わせると人は自然と

 目をつむります。情報の多い視覚が閉じられると音や肌を過ぎる風に敏感になりま

 すね。鳥の声、葉擦れの音、遠く清流のせせらぎ。それらを聞き分けるように耳が鋭

 くなるとも読めますし、山中という外界から離れた場所で、人ではない優れた耳に変

 化していくようにも感じます。                 句集『東北抄』より。



№206   まんなかに始まりのある水馬      鴇田 智哉(1969年〜)

  水馬の読み方は「あめんぼう」です。大きな池にも小さな水たまりにも、水面を滑

 らかに動くアメンボがいます。脚先に生える細かな毛が水を弾き、体は宙に浮かん

 でいます。中央にある胴体を「始まり」と捉え、そこから六本の脚が伸びているので

 す。中央が始まりなら、先端は終わりになるのでしょうか。実際の脚だけではなく、

 アメンボの存在そのものが放射状に拡がってゆき、一句に小さな生き物の命の様

 子が凝縮されている気がします。            句集『エレメンツ』より。



№205   ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田 澄子(1936年〜)

  ピーマンを切り、内側の暗闇にさっと光が差す、それを言うなら「ピーマンを切って

 中が明るくなった」でしょう。それをわざわざ「明るくしてあげた」と書いています。ピー

 マンにとってありがたいのか、いい迷惑なのか、それすらも分かりません。ピーマン

 がもともと持つ明るさと、内部に持つ暗がり、そこへ切り込んでいく自分の行為を

 不思議な視点でまとめ上げています。軽い語り口ですが、人にある無邪気な残酷さ

 も描いている気がします。                  句集『空の庭』より。



№204   肯定を会話に求めゐては朱夏    辻村 麻乃(1964年〜)

  たわいのないやりとりでも、他人に肯定されて大きな勇気を貰うことがあります。

 背中を押してほしいときはなおさら、自分を認める返事をしてくれる人を探してしま

 いますよね。そう思って会話を続けますが、相手が希望通りの返答をするとは限り

 ません。もどかしさの中、自分が期待している言葉があることを自覚したのではない

 でしょうか。五行思想で夏に対応する色は赤。「朱夏」という歯切れの良さに、自分

 の気持ちの高揚も見えるようです。             句集『るん』より。



№203   黄昏れてゆくあぢさいの花逃げてゆく
                         
富澤赤黄男(1902〜1962)

  「紫陽花の花が逃げる」がずっとわからなかったのですが、ある時これは色彩の

 句なのではと思いいたりました。黄昏の世界は、夕方の薄黄色から西の空を照ら

 す橙色へ薄暗く灰がかった色から夜に向かう藍色へ、そして日の沈みきった闇の

 色へと変わっていきます。天気や見る人の主観でもさまざまに変わりますね。紫陽

 花は「陽」を名前に持ちます。花の色が日暮れに合わせて静かに変わり、やがて

 夜の闇へと消えていく様子を想像しました。       句集『天の狼』より。



№202   もの書きの肺に生まれる金魚かな    加藤 知子(1955年〜)

  金魚という文字が俳句にあれば季語になりますが、ほかの「金魚」との違いは、

 情報量の厚みと季節感、現実感が伴うことでしょう。金魚が肺というあり得ない場

 所に生まれていますが、泳ぐ姿や生態、ぱくりと餌を食べる姿を緻密に想像したほ

 うが楽しい気がします。水がなく苦しんでいるかも、想像という活力を得て生き生き

 と泳いでいるかもしれません。「もの書き」をする人も、この金魚のように呼吸をして

 いるのかもしれませんね。                 句集『たかれざき』より。



№201   世界が終わるときも やさしき麦と大地   宇井 十間(生年不詳)

  あるいは、流行りの歌に見られるような聞こえがよく大げさな言葉が、俳句という

 形式に捉え直されることがあります。世界が終わりを歌う詩はこの世にいくつもあり

 ますが、夢のような想像の言葉として、雰囲気を楽しむことが多いです。しかし俳句

 は「あるいは本当にあるのでは」という実感が、季語を通じてそこはかとなくまとわり

 つきます。現実にある麦と大地、作者が見つけたその優しさが、遠い未来の最後

 の瞬間にも存在しています。             句集『千年紀』より。



№200   尺取虫老いは往ったり来たりする   武藤 鉦ニ(1935~2021)

  シャクトリムシは蛾の幼虫で、指で長さを測るような動きで進むことからこの名が

 付いたそうです。初夏から秋まで現れますが、姿がよく見られて森の緑に際立つ

 夏の季語です。シャクトリムシの這う様子と取り合わされているのは、作者の老い

 の実感です。活力に満ちた一日を過ごしていても、あるときにふと衰えを感じ、ま

 た元の状態に戻っていく。自分の中にある感覚の振れ幅を発見し、ユーモアのあ

 る虫の姿と対比した魅力的な句です。        句集『羽後残照』より。




  ≪五月≫


№199   らーめんつるつる梅雨空にもの申す    河村 正浩(1945年~)

  夏の真っ青な空が来る前に、日本列島はひと月ほど梅雨に入ります。雨が降らず

 とも空はどんよりと曇り、湿っぽい風が吹きつけます。天気予報は明日の空を教え

 てくれますが、時には外れるときもありますね。天は人の都合を聞いてはくれませ

 んが、晴れてくれなきゃ困るよーと文句だって言いたくなるもの。美味しそうなラー

 メンと「もの申す」という仰々しさの取り合わせは、日常の何げない場面をユーモラ

 スに描き出しています。              句集『花かしら風かしら』より。



№198   化けさうな一軒家あり螢狩       大峯あきら(1929~2018)

  水辺をそぞろ歩いて蛍を楽しむ夜、道沿いには崩れかかった一軒家があったので

 しょう。柱は朽ち、窓は外れ、家全体を蔓や厚い木の葉が覆っています。家そのも

 のが今にも物の怪に変化しそうです。かつての日本は街灯もなく、暗がりに浮かび

 上がる景色には、得体の知れない恐れがありました。と言っても現代が隅々まで明

 るくなったわけではありません。蛍の光が照らすほのかな闇には、正体のわから

 ない気配が今もひっそりと息づいています。        句集『群生海』より。



№197   子の眠る丸窓にとびうをの影       小田島 渚(1973年〜)

  実際の景色や日常にある物語と、そうでない不思議な世界。この句はその狭間

 にあります。子供が寝る寝室の丸窓にトビウオの影がよぎりますが、丸窓も、眠る

 横を過ぎる魚も現実にはそうそうない状況です。しかし丸窓は船室を連想させ、眠

 りは夢の世界を想像させます。子供の夢の世界の海と繫がり、窓の外を魚が跳ね

 ていったのかもしれません。ただ情景を描写しながらファンタジーの世界を切り取

 る。十七音でこんな物語も描けるのです。       句集『羽化の街』より。



№196   まつろはぬ血をばはるかに青山河

                        
金箱戈止夫(1928~2020)

  朝廷の力が全国に及んでいった古代の日本において、土着の民は従うか、戦う

 かという選択を迫られました。「服わぬ」とは服従をしないこと。「まつろわぬ血」とい

 うと大きな勢力に抗い、自分たちの一族を貫き通した人々の血脈を想像します。私

 の故郷にも蝦夷の歴史が残りますが、朝廷側か、民の側から書くかで物語は変わ

 っていきます。人は代を重ねますが、雄大な自然は変わりません。豊かな山河に

 夏の緑の色が今年も深まっていきます。         句集『梨の花』より。



№195   朝蟬よ若者逝きて何んの国ぞ   金子 兜太(1919〜2018)

  風景を美しく描写する俳句がありますが、人間の思いをストレートに、強く打ち出

 すものもあります。戦争か、貧困か、絶望が理由なのか、しかし若者が死んでしま

 ってなんの国だろうか、という深い嘆きと怒りです。蝉は夕方から夜にかけて羽化

 し、気温の上昇や光を受けて鳴き始めます。朝蝉は生まれて初めて出す声、一日

 の始まりの声です。その蝉に呼びかける思いは、個人を超え、時代や場所を超え

 て全てのものに通じる普遍性を持っています。      句集『百年』より。



№194   手花火や背後の海は闇につづく   前田 霧人(1946年~)

  浜辺で手花火をしている風景でしょう。小さくしゃがみ込み、パチパチとはじける

 火を見ていると、自分と自分の足元が明るく照らし出されます。しかしそれ以外は

 夏の夜の闇。背中を向ける海は真っ黒で果てが無いようですし、どこからか海では

 なくなり、闇そのものに続いているように感じます。下五の「闇につづく」は六音のリ

 ズムです。五七五から少しはみ出た最後の語感が、延々と続いていく闇の深さの

 余韻を残しています。                 句集『えれきてる』より。



№193   通夜の家田植えの話まぜこぜに   武田 伸一(1935年〜)

  葬儀の前夜、お通夜の席では家族や親戚、親しい知人が集まり、棺の故人を守

 ります。長い一晩ですから、亡くなった方の懐かしい話はもちろん、自分たちの近

 況や雑談と話の種は尽きません。この句はちょうど田植えの時期。蝋燭を灯しなが

 らも、もう植えたか、そっちはいつか、あの頃はこうだった、最近の機械はどうだ、

 と話題が飛び交う様子が目に見えるようです。故人を偲ぶ厳粛な儀礼も、日常の続

 きにあることが描かれています。           句集『出羽諸人』より。



№192   さへずりのつぶだちてくる力石    永田 満徳(1954年~)

  さへずりは「囀り」のこと。春には求愛や縄張りを守るため、小鳥の声が賑やかに

 聞こえてきます。力石は神社の境内にある大きな石です。持ち上げられるかを競っ

 たり、上がるかどうかで神意を占ったりした、全国各地にみえるものだそうです。石

 のそばで鳥の声が聞こえます。しばらくいると音が粒立ち、声の一つ一つがはっきり

 と聞こえてきました。昔の人が力を込め、願いを込めた石という粒と、目に見えな

 い音の粒が響き合っています。            句集『肥後の城』より。




  ≪四月≫


№191   摩天楼より新緑がパセリほど     鷹羽 狩行(1930年~)

  1969年のニューヨーク出張での句と言われています。当時最先端の超高層建

 築から覗いた地上では、初夏の新緑がパセリほどの大きさに見えたのでしょう。

 建物の横や下から見上げる視点ではなく、高い階から真下を見るという新しさを導

 入し、それまで見たことのない季語の姿を捉えています。パセリというのも新鮮です

 ね。句は「ほど」で終わっており、文末が曖昧な形ですが、霞むような高層階の風景

 の表現としてぴったりだと思います。              句集『遠岸』より。



№190   三月の甘納豆のうふふふふ     坪内 稔典(1944年~)

  私が初めて読んだのは国語の教科書です。実は〈一月の甘納豆はやせてます〉か

 ら始まり〈十二月をどうするどうする甘納豆〉で終わる、甘納豆十二句と呼ばれる連作

 のうちの一句となっています。ちなみに今月は〈四月には死んだまねする甘納豆〉で

 す。三月がとりわけ有名なのは、笑い声と甘納豆という素材が三月の明るい気分に

 よく合うからでしょう。理屈で読む句ではありませんが、楽しげでちょっと抜けた雰囲

 気が味わえると思います。                 句集『落花落日』より。



№189   誰もみな翼をたたみ潮干狩     遠藤由樹子(1957年~)

  なんて素敵なフレーズだろうと思うのです。潮干狩りをする人は、自らの翼をたた

 んで砂の上に降り立った人々です。そう思うと、うつむいて一心に地面を見る姿は

 鳥が着地するときの姿勢のようですし、仕事や勉強から離れレジャーとして砂浜に

 憩う様子は、長い飛行を終えて休む鳥に似ています。潮干狩りは3月から6月頃ま

 でが時期です。暖かくなって海辺が楽しく、アサリが旬となっています。山に海に、

 動きやすい季節になってきました。            句集『寝息と梟』より。



№188   傾きて花の総体こぼさざり     森川 光郎(1926年~)

  詩歌で「花」は桜の花です。この句の木は傾いているようですから、山の斜面に生

 えているか、枝ぶりが斜めなのでしょう。しかし満開の花がこぼれることはありませ

 ん。「総体」とは物事のすべてを指します。大体という意味で、花びらが多少散ってい

 ても全体は保たれているとも取れますし、難しく考えれば、桜の花の観念や定義や

 存在の全てがこぼれず咲ききっているとも読めます。危うさと完璧さの共存する桜の

 ありようを詠んでいます。                 句集『遊水地』より。



№187   忘れ物の如く母ゐてあたたかし   今瀬  剛一(1936年~)

  「忘れ物のようだ」とは肯定的な表現ではありません。忘れられて嬉しい人はいま

 せんものね。だからこそ、いったいどんなことを詠んだのかと、想像がどんどん広が

 ります。忘れ去られた物が無言で置かれるように、強い主張をせず静かな母、ふと

 大切な存在なのだと思い返す人。「忘れる」という言葉からは認知症も頭をよぎりま

 す。ほっこりとした人柄を感じるのは、「あたたか」という春の安らかな季語と結び付

 けられているからでしょう。                  句集『甚六』より。



№186   鶯や刀身先へ先へ反り     廣瀬 直人(1929〜2018)

  春の野山に鴬の声が響きます。季節の初めは鳥の方も鳴き慣れていないようで、

 出だしの「ホ」の音が出なかったり、声の伸びがいまひとつだったりします。しかしこ

 の句はきっときれいな歌声ですね。日本刀の鋼の部分が切っ先へゆくほどに美しく

 反るように、「ホーホケキョ」も伸びやかに聞こえます。かつては侍が腰に佩き、ある

 いは床の間に飾られた刀も今は博物館の中でしょうか。刀の方も春を告げる声を懐

 かしく思っているかもしれません。              句集『矢竹』より。



№185   腰痛の足下ものの芽びつしりと   山尾 玉藻(1944年~)

  腰痛は体の不調の中ではなかなか大ごとで、全く動けなくなることもありますし、

 慢性的な痛みをかばって体全体の動きに影響することもあります。足下は「そっか」

 と読むでしょうか。ゆるゆると歩く下には、春になり萌え出た様々な草の芽がありま

 す。一つ一つは小さく他愛ないものですが、周囲を埋め尽くされると生命力が押し寄

 せてくるようです。自分自身が腰痛で弱っていればなおさらですね。意外な対比が

 ユーモアを生み出しています。               句集『人の香』より。



№184   父母の存命中の桜かな       杉浦 圭祐(1968年〜)

  例えば想像できるのは、亡くなった父母を撮った写真の桜です。今は亡き家族を

 懐かしみ、今も咲き続ける桜に思いを馳せています。あるいは、存命という言葉か

 ら今の生とその先にある死ということを考えました。今父母は生き、桜は咲いていま

 す。しかし彼らがいなくなった後に、桜咲く日が来ることも事実です。それは年月の

 差はあれ、等しく人に起こることに違いありません。ならば、この花の盛りを精いっ

 ぱい一緒に楽しもうと思うのです。              句集『異地』より。



№183   のどかさに一歩さびしさにも一歩  綾部 仁喜(1929〜2015)

  「長閑」とは実は春の季語で、春の景色がゆったりと落ち着いている様を表します。

 作者は見えるもののあまりののどかさに、思わず一歩を踏み出しました。場所は野

 原かも、春の街並みかもしれません。しかし、二歩目を進めた理由はさびしさだと言

 っています。のどかな風景の中に一抹のさびしさを感じ、惹きつけられたのか、自分

 の中に湧き起こるさびしさに背を押されたのでしょうか。背中合わせの気持ちが、い

 つも私たちを揺り動かします。                句集『寒木』より。




  ≪三月≫


№182   よう生きてる大したもんよ亀の鳴く   山上樹実雄(1931~2014)

  季語には想像上のものがいくつかありますが、今回の「亀鳴く」もその一つです。

 一般的に亀は発声しないとされますが、春のうららかな水辺で、のんびりと口を開

 ける亀に鳴き声があると、古来俳人の想像力をかき立てたのでしょう。詠まれた時

 期からは作者晩年の感慨もあると思いますが、悟ったような表情の亀が「よう生き

 てる大したもんよ」と語るなら、それは若者であれ老人であれ、一生懸命に生きてい

 る人に届く言葉なのだと思います。              句集『春の顔』より。



№181   猪が来て空気を食べる春の峠   金子 兜太(1919~2018)

  冬眠から覚めた猪が、峠に来て春の空気を胸いっぱいに吸っています。作者は、

 郷里秩父の山国の春の訪れを詠んだもので、思い切り気ままに吸う様子を「食べ

 る」と表現したと話しています。しかし空気を食べて生きる猪だとすると仙人や精霊

 のようですね。元々峠は山の境目、あの世とこの世が重なる不思議な所と言われま

 す。あるいはこの猪は山神の化身なのかもしれません。しかし顔にはほっこりとな

 ごやかな表情を浮かべている気がします。         句集『遊牧集』より。



№180   陽炎より手が出て握り飯摑む   高野ムツオ(1947年〜)

  東日本大震災のときに詠まれた句です。春の陽気に遠くのものが揺らいで見えま

 すが、その中から出た手が配給のおにぎりを力強く掴みます。涙の視界のような陽

 炎は、揺らいだ日常や人々の心を例えているでしょう。どうにもならない悲しみや、

 ありますが、それでもお腹は減り、人は生きてゆかねばなりません。肉体が気持ち

 に負けずに持つニュートラルな生命力を、私達は信頼していいのだと思います。

                               句集『萬の翅』より。



№179   春月や書物崩るる中に棲む    鍵和田秞子(1932~2020)

  最初の五音にある季語が助詞の「や」で区切れています。一呼吸置いてから次

 の言葉を読むといいでしょう。月は一年中ありますが、季語となれば味わいも他の

 言葉への影響も大きく変わります。もし寒月なら真面目な本を持て余しているようで

 すし、秋なら夜長にゆっくり読む本かもしれません。本は床に積まれたものでしょう

 か。崩れた本が日常の風景として優しく存在しているように感じるのは、春月の柔

 らかい光が降り注いでいるからでしょう。           句集『風月』より。



№178   ほめられて大きくなる子桃の花    浅井 陽子(1944年~)

  書店の育児書の並びでは「褒める」や「自己肯定」という言葉をよく見かけます。

 注意や強制、条件付けをした誘導よりも、最近は、してほしいことにプラスの感情

 を繫げて望ましい行動を増やす、認知・肯定の方法がより注目されていると言える

 でしょうか。俳句に詠まれた子どもも周りの大人の笑顔をいっぱい受け止めて健や

 かに育っていく気がします。それは桃の花にこぼれるような幸せと春の喜び、成長

 への祈りを感じたからでしょう。           句集『浅井陽子集』より。



№177   そのほかの花待つこころ寒櫻    上野 一孝(1958年~)

  寒桜は季語としては冬に分類されますが、東京では3月上旬に開花するそうです。

 日本列島は南北に長いので地域の気温差も桜の木の種類の差もありますが、春

 の主だった花の前に色づく寒桜は、見上げる人々を和ませます。寒桜を見る心中

 には、早咲きの寿ぎに癒やされていますが、一方で、他の花はまだか、春の訪れ

 はまだかと切望する気持ちもあるはずです。今はまだ山に雪が残り、肌寒い風や

 枯草がそよぎます。それでも必ず春は来るのです。   句集『迅速』より。



№176   日陰より眺め日向の春の水   深見けん二(1922~2021)

  ふとした時に触れるぬるさも春の水の質感ですが、ここでは小川など流れる水の

 様子でしょう。冬場の川は乾燥や積雪などで水量が少なくなりますが、春になると

 水の勢いが増していきます。水の流れに日が反射し、生き生きとしたこれからの季

 節を感じさせますが、それを見る作者はまだ暗がりの中にいます。日向へ出て行く

 勇気がないのか、美しさに気圧されているのか、陰からうっとりと明るい美しさを眺

 める逡巡が感じられます。                  句集『日月』より。



№175   一斉に振り向きさうな黄水仙     抜井  諒一(1982年~)

  「一斉に振り向きそう」までは人か動物かと思いましたが、作者がそう感じたのは

 意外にも黄水仙の花です。六つの花弁の中に副花冠という冠のような部分があり、

 全体は正面を向いたラッパのような形です。背の高い茎と葉に囲まれ、見ようによ

 っては顔と首のようですね。しかし風で傾きはしても後ろは向かないでしょう。本当

 に振り向いたらちょっと不気味ですね。もしそうなら、という不思議な風景が読んだ

 人の頭の中だけに浮かび上がります。           句集『金色』より。



№174   よく眠る夢の枯野が青むまで   金子 兜太(1919~2018)

  作者の金子兜太も、作るときは意識しなかったが松尾芭蕉の〈旅に病で夢は枯

 野をかけ廻る〉の本歌取りのようだと話しています。目の前の実物を読むことの多

 い俳句において、夢を読むのはそれだけで大胆です。兜太の句は、冬の枯野が夏

 になり青々とするまで眠る、という大きな時間経過を読んでいます。現実ではできま

 せんが眠りの中では可能です。芭蕉が病んで夢で駈けめぐった枯野は、兜太の健

 やかな夢の中で季節をめぐり育っていきます。     句集『東国抄』より。




  ≪二月≫


№173   どの木にも風が棲みつき冬深む黛   執(1930〜2020年)

  この頃は季節が変わったという感動もなくなり、しんしんと降る雪に春の到来が待

 ち遠しくなってきました。昨日も冬で明日も冬、と寒さが極まる頃を冬が深まったとし

 みじみ思うのでしょう。葉を落としきった木の枝の間を寒風が吹き抜けていきます

 が、作者は一本一本の木に風が住んでいると捉えました。見上げても音ばかりで

 風の姿は見えませんが、木々は枝を天へと伸ばし、人が見ていない時も止むことな

 くさわさわと揺れ動いています。               句集『春がきて』より。



№172   雪国へ入りぬ綺麗に箸割れて    岩田  奎(1999年〜)

  綺麗に割れた箸は、駅弁の割り箸でしょうか。そう想像するのは川端康成の小

 説『雪国』の出だしが列車の描写から始まるからかもしれません。トンネルを抜け

 て風景が一変したように、あるときから車窓を占める雪の割合が増え、別の国に来

 たかのように思うことがあります。景色の変わりようと箸の割れ方が響き合って、作

 者の得た感慨が伝わってくるようです。目的の雪深い地を踏むまで、英気を養うお

 いしい弁当をいただくのでしょう。                 句集『膚』より。



№171   雪螢束の間といふ刻のあり      増成 栗人(1933年〜)

  指四本分を一束といい、束の間とはそれほど短い時間を指すそうです。作業は

 何分、出発は何時何分というように、見えない時間を具体化するのが得意な友人

 がいますが、私は全く不得手な方です。冬の大気をふわふわと飛ぶ綿虫は雪蛍と

 も呼ばれます。雪蛍が現れて視界から消える間、淡い初雪が降り、地面へ当たって

 消えてしまう短い時間は時計では計れません。もしかして時計から外れた、どこに

 もない時間が経っているのかもしれません。       句集『草蜉蝣』より。



№170   心なき吾が木ら樹氷かがやかせ   細谷 源二(1906〜1970)

  霧の粒が吹き付けられて凍り、木の幹や枝に層をなしていくのが樹氷です。風の

 吹く方へと白く細かな氷が伸び、やがて全体を覆っていきます。この句を口語にす

 れば「心のない私の木たちが樹氷を輝かせている」でしょうか。樹木には当然心は

 ありません。しかし、わが木と言うことにより、樹木と自分を同一視するような情感

 が強まります。心なく地に立っているのは自分も同じなのです。その身は凍りつき、

 日光を浴びて美しく輝いています。            句集『砂金帯』より。



№169   永い道草いつしか雪のくる匂い    藤野  武(1947年〜)

  用の途中で道草を食っていると、つんと雪が降り出しそうな香りがしました。本当

 の雪の匂いは分かりませんが、乾燥した空気や冷えゆく気温を気配として感じたの

 かもしれません。しかし「永い」という期間を捉え直すと、抽象的な味わいが深まり

 ます。人生のうちの永い期間に、道草のような時間があったとして、当人はなかな

 か自覚できないものだと思うのです。それは己を振り返るか、あるいは雪降る気配

 によって分かるのだと思います。            句集『光ひとり』より。



№168   身のうちに炎立つこゑ寒牡丹    恩田侑布子(1956年〜)

  ちらちらと雪降る頃、あるいはすっかり積もった雪の中に、緋色やうす桃色の大輪

 の花が咲いています。品種や育て方により冬の時期に咲く牡丹です。一方、身の内

 に立つ炎は全く想像の世界のことです。怒りや激しい情熱なのかもしれませんが、

 私には寒牡丹を見るうちに作者に湧き起こった情動のように感じました。炎が立つ

 声がすると表現していますが、人の声か、あるいは言葉になる前のものか、その音

 も人の心の中にあります。              句集『はだかむし』より。



№167   落日を得たる枯木の華やぎぬ    大石香代子(1955年〜)

  寒風の吹きくる冬も太陽は赤々と沈んでいきます。淡い夕日の光は辺り一帯を照

 らしていくでしょう。その光の中に枝だけになった木々が立ち並んでいるところを想像

 しました。花や葉のある頃には賑やかだった木も、葉を落として枯木となると寂しい

 ものです。しかし、落日の逆光の中に浮かび上がる立木は、絢爛な一瞬を私達に

 見せてくれます。光の時間が終われば、元の静かで厳格な姿を取り戻すのでしょう。

 やがて夜がやってきます。                  句集『鳥風』より。



№166   透明な壁に囲まれ咳こぼす   松野 苑子(1947年〜)

  二年以上続く「コロナ禍」に、私達の生活様式はどんどん変わっていき、新しいツ

 ールも増えました。その一つが机に置かれるアクリル板です。向こうの景色も表情

 も見えますが、相手との空間を隔てています。その中ですまなそうに咳をする様子

 が思い浮かびました。もちろん風邪ではないですよと縮こまりながら。今後、感染

 対策が緩和され、マスクやアクリル板がなくなったとしても、人の間にある透明な壁

 が取り払われるかは分かりません。              『遠き船』より。




  ≪一月≫


№165   咳をしても一人       尾崎 放哉(1885~1926)

  俳句は五七五の定型と季語がよく知られていますが、その形式にとらわれないも

 のもあります。自由律俳句は音数において定形から解放されました。この句はその

 中でも短く、端的です。同じ作者の同様のリズムに〈墓のうらに廻る〉という句があり

 ますが、最大の違いは冬の季語である「咳」があることでしょう。寒さと心細さの中、

 自分の咳き込む音が響きますが、心配してくれる人は周りにいません。句の短さ

 が大きな空白と余韻をもたらしています。         『尾崎放哉句集』より。



№164   地の涯に倖せありと来しが雪     細谷 源二(1906〜1970)

  作者の細谷源二は、終戦の年に一家を連れて東京から北海道へ移住しました。

 北海道開拓移民団に参加したのです。空襲を受けた東京を去り、希望を持って北

 の国へと向かいましたが、待っていたのは開墾には向かない貧しい土壌と、雪と氷

 に閉ざされた厳しい冬でした。その思いがストレートに書かれています。音は十七音

 ですが、リズムとしては最後の二音に強さがあるでしょう。なすすべのない巨大な

 自然の力は今も私たちを取り囲んでいます。        句集『砂金帯』より。



№163   雨は雪に土曜の電車乗らねばならぬ   森田 緑郎(1932年〜)

  「しなければならない」と言ってしまうと、実際は簡単なことでも重荷に感じてきま

 す。今度の土曜日に電車に乗る予定がありますが、そのためには時間を守って駅

 に着き、車内でじっとして目的地でちゃんと降りなければなりません。降る雨を見な

 がら、それが億劫になっている自分自身にぼんやりと気付いているのでしょう。寒さ

 が募り、雨は雪に変わってきました。同じようにだんだんと近づいて来る土曜日も、

 気の重たいものに感じます。                 句集『藍納戸』より。



№162   指の傷舐めて真冬の味のせり      亀田 虎童子(1926年~)

  冬は空気が乾燥していて手指に切り傷が増えます。私も先日、段ボールで親指

 の横を切ったところでした。傷口を舐めて治す、唾液で消毒するというのは昔から言

 うことですが、それなりに根拠があるようですね。切ったばかりの指を舐めると血と

 鉄と乾いた指の味がします。作者はこれが真冬の味だと言うのです。肌をぴりぴり

 とさせる寒さ、乾燥した空気の感じ、動くのが億劫になる体の感覚、それらを味覚に

 したならばそんな感じかもしれません。            句集『日常』より。



№161   立ち帰るわが定点の冬木かな    安西  篤(1932年〜)

  落葉樹は幹と枝だけになり、常緑樹は緑の葉を力強く支えています。寒風に耐え、

 積もる雪に無言でたたずむ冬の木には厳しい命の姿があります。定点観測は場

 所を決めて変化を測定しますが、作者はその木が自分の定点だと言います。冬木

 こそが自分の立ち戻る初心だと捉えているのでしょう。初心よりも定点という言葉に

 は、常に移り変わる成長した自分の姿が強く表れます。木のそばに立ち自分の進

 化の記録を刻む、作者の決心が感じられます。      句集『素秋』より。



№160   たましいはただならぬもの虎落笛
                         
蝦名 石蔵(1949年〜)

  虎落笛はヒューヒューと鳴る冬の烈風の音です。虎落とは竹の柵のことで、これ

 に風が当たるときの笛のような音が語源です。前後には〈マタギの地阿修羅のごと

 く雪がふる〉や〈ガリガリと雪踏んでいく猟の村〉の句が並び、猟を生業とする村を

 読んだ句とわかります。たましいは我々にもありますが、雪深い山々に眠る獣たち、

 また、これから狩られる動物たちの命を考えると、凄みと奥深さが感じられます。

 風の音がまるで遠吠えのようです。             句集『風姿』より。



№159   霰して納め遅れの飾かな   石田 勝彦(1920~2004)

  七日までを松の内と言いますが、これは門松などの松飾りをかける期間だそうで

 す。地域によりますが関東では七日に外すことが多く、外した飾りは一五日頃のど

 んど焼きや左義長というお祭りの、大きな焚き火で燃やされます。屋外に付けた

 注連縄や輪飾りは、静かな町にそっとお正月気分をもたらしてくれました。この句

 では霰がぱらぱらと降る中に外し遅れた飾りがありますが、やがてこれも取り払わ

 れ、町並みは日常を取り戻していきます。         句集『秋興』より。



№158   みちのくの雪滲みたる初便り     三森 鉄治(1959~)

  初便りは新年に初めて届く手紙のこと。もちろん年賀状のことも指します。今では

 メールなどインターネットを介したやりとりが主流になり、年賀状も印刷のものが多

 いかもしれません。しかし遠方からの便りを受け取ればしみじみとします。作者のも

 とに届いたのは東北からのもの。表面には水に濡れてインクが滲み、乾いた跡があ

 ります。雨でなく雪だとわかったのは、東北の雪深さに触れる一文があったからでは

 ないでしょうか。沁みる一句です。              句集『栖雲』より。



№157   一塊の粗塩として初日受く   高野ムツオ(1947年~)

  新しい年が明けました。現代では時計とともに一年が切り替わりますが、昔は初日

 の出を望みながら新年の感慨に浸っていました。その光を、自分がまるで粗塩の塊

 であるような気分で受けたという句です。粗塩とは海水を乾かし、昔ながらの製法で

 作られた塩です。結晶の粒は不揃いで、お清めや盛り塩にも使うそうですから、塩に

 ある一種の清浄な力を読み取ることができます。元旦に自らの体が清められ、志を

 新たにしているように感じます。               句集『片翅』より。




  ≪十二月≫


№156   大人には見えぬものあり冬菫       小田島渚(1973年~)

  「は」という助詞はなかなか不思議なもので、主題を示したり強調したりさまざまな使

 い方があるのですが、私も詳しいわけではありません。しかしこの句を読んだ方は自

 然と、対比されている「子どもには見えるもの」を想像したのではないでしょうか。純粋

 無垢(むく)な目に映る、精霊や妖怪のような幻想的な存在は、私たちも幼い頃に見え

 ていたはずなのです。冬の寒風の中に咲く神秘的な菫(すみれ)の周りには、私たち

 大人には見えないものが踊っています。       句集『羽化の街』より。



 №155   幸福にみかんの皮が乾きゆく     中西ひろ美(1952年~)

  雪の積もる日に炬燵(こたつ)に入り、ぬくぬくと過ごす様子を想像しました。中央に

 はみかんの山があり、好きなだけ食べていいのです。ごみ箱に捨てるのが億劫(おっく

 う)なので、食べた皮は置きっ放し。お腹(なか)いっぱいになってぼんやりしていると、

 むいた皮が暖められた空気に乾いていきました。大胆な省略を効かせて幸せの一つ

 の形が描かれます。みかんや炬燵がない方だっているでしょう。しかし、十七音の短

 さの中で幸せを夢見ることはできるのです。       句集『咲』より。



 №154   巌一つ寒満月を繋ぎ止む        永田満徳(1954年~)

  リズムから「いわ」とも「いわお」とも読めると思います。文字から山や地面から突き

 出た大岩を想像しました。ゴツゴツした岩肌が月の光に照らされ、いっそう重量感を増

 しています。その大岩が満月を繋(つな)ぎ留めているというのです。寒満月は特に冬

 の満月のこと。物理的にも冬は月の軌道が遠く、夜空の遠くで小さく光り輝いていま

 す。冴(さ)え冴(ざ)えとした空気の中で、大岩と天空の月とが呼応し合い、不思議な

 力で結ばれたように感じます。          句集『肥後の城』より。



 №153   冬銀河長湯の夫を忘れけり      長岡悦子(1941年~)

  ふと外に出たのか、窓から見上げたのか、銀河は冬の夜空に鮮やかに浮かびます。

 冬銀河と取り合わせるのは夫の長風呂のことです。1人がお風呂に入っている間はも

 う1人の自由な時間。相手のことを忘れるくらい冬銀河がきれいとも読めますし、慣れ

 た一人の時間にうっかり忘れてということもあるでしょう。一緒に暮らしても個々の時間

 は大切です。小さな星粒のように私たちも存在し、それぞれに独立しながらも大きな流

 れをつくっています。                  句集『喝采の膝』より。



 №152   海に雪心にルビをふるごとく髙橋健文(1951年~)

  海に降る雪は不思議です。空からは無限とも言える数の雪が降りますが、海面に

 触れればすぐ融(と)けて消えてしまいます。ルビは文章の読み方を示すために脇に

 添えられる文字です。心の中の言葉は本人にしか聞こえませんが、ルビが振られると

 いうと自分の中で意味を噛(か)み締めたり、捉え直したりしているように思います。心

 にルビを振ったとして、何か現実が変わるわけではありません。海に降り続く雪のよう

 に、淡くすぐさま融けていきます。           句集『中今』より。



 №151   冬眠の蝮(まむし)のほかは寝息なし
                         
金子兜太(1919~2018年)

  奇妙な情景です。マムシが冬眠していますが、そのほかの寝息はありません。他の

 生き物は寝ていないのか、冬眠する動物がマムシ以外いなくなったのか、状況の解

 釈は分かれ、答えはありません。しかし句に立ち戻ると、ここにはマムシの寝息の音

 だけが書かれていることに気付きます。有毒の生き物である怖さは冬眠によって鎮め

 られ、「蝮」の字からは呼吸による腹部の上下が見えるようです。それ以外は静まり

 返った世界が描かれています。               句集『皆之』より。



 №150   雲寒鴉人智を越えて人里に   和田悟朗(1923~2015年)

  カラスは一年中見る鳥ですが、冬により多く見かけるといいます。子どもが成長して

 数が増え、人里へ食べ物を探しに来るためです。ねぐらは人と離れた森や山にある

 ので日中に飛んで来るのでしょう。葉のない冬木の枝に黒々としたカラスが止まって

 いるのを見ると、荒涼とした冬の風景がより際立ちます。この風情こそ「寒鴉(かんが

 らす)」です。堂々としたカラスの風貌は賢く少し不気味です。そこに人の知恵を超越

 した神秘性を感じたのでしょう。             句集『人間律』より。



 №149   去年今年開きつぱなしの鼻と耳     堤保徳(1939年~)

  去年今年は「こぞことし」と読みます。12月31日の夜は更け、やがて新年がやって

 きます。昔はしらじらと昇る朝日を見て実感した、年はすみやかに移り変わるのだとい

 う感慨が込められた季語です。さて鼻や耳には蓋(ふた)がなく、ずっと閉まることはあ

 りません。当然ですが改めて気付くことでもあります。正月の準備をし、体を整え、心も

 改まる年越しの瞬間ですが、変わらないものはそのままですね。ちょっと心のゆるむよ

 うな一句です。                     句集『姥百合の実』より。



 №148   一時を委ね小春のカフェ・オ・レ   小山正見(1948年~)

  暦の上では立冬を過ぎましたが、厳しい寒さは訪れない穏やかな日を小春日和とい

 います。これから始まる本格的な冬に備える時期です。小春日に入った喫茶店か、あ

 るいは自宅で一息をつく時、温かでほっとするカフェオレを淹(い)れました。それぞれ

 の人生に大事小事があり、重い日々を抱える人もいます。それらすべてを一杯に委ね

 て味わう、解放された時間です。その一時(いっとき)は誰でも得られるということを思

 い出す必要があるはずです。              句集『大花野』より。




  ≪十一月≫


 №147   雪国に住み食べもののみな薬    大畑善昭(1937年~)

  作者は岩手の俳人。同郷なのでひしひしと実感が湧きます。医食同源という言葉も

 ありますが、食べ物が薬とは食事によって体を調え、病気を予防しようという考えでし

 ょう。それが雪国でより強調されています。食べ物が枯渇した時はもちろん、なんでも

 豊かに食べられる時は医食同源という言葉は湧きません。厳しい冬で食料が限られ、

 激しい外気の変化に体が応える時、食べた物でできている自分の体の感覚が一層深

 まるのではないでしょうか。                  句集『一樹』より。



 146   森に入るやうに本屋へ雪催     篠崎央子(1975年~)

  リズムから「入(い)る」と読みたいです。雪催(ゆきもよい)は雪が降り出しそうな冬

 の曇り空のこと。コートを厚く着て息を白くさせながら街を歩いていると、ふと目に留まっ

 た書店に足が向きました。まるで小道から木々の生い繁(しげ)る森へと入るようです。

 森には葉を落とした木々や常緑樹、たくさんの落ち葉があるように、書店にもさまざまな

 本があります。ポケットに手を入れたまま、何も買わずに出るかもしれません。それも雪

 催の空には似合う気がします。                句集『火の貌』より。



 №145   激流の音のみがあり冬すみれ     澤好摩(1944年~)

  冬すみれとありますが、花の種類があるわけではなく、冬に咲いたすみれのことを指

 します。気温が下がりだんだんと寒くなりますが、陽(ひ)だまりの暖かな場所では不意

 にすみれが花開くことがあります。この句では森か山の中、激しい川の流れのそばで咲

 いたようです。辺りに物音はなく、冬の冷涼な空気が漂う中、轟々(ごうごう)と聞こえる

 水の音だけがすみれへと届きます。その様子を作者もじっと見ているのでしょう。暖かさ

 と激しさが対比される一句です。              句集『返照』より。



 №144   冬鵙や日時計はけふ影持たず   加古宗也(1945年~)

  公園や広場にある日時計は、文字盤に落ちる影で今の時間が分かります。しかし今

 日は影がないそうなので、空は冬の厚い雲に覆われているのでしょう。一方鵙(もず)は

 秋の姿、縄張り争いの甲高い声が有名です。冬は葉の落ちた梢(こずえ)に止まり、静

 かに辺りを見つめています。声は秋ほど聞かれませんが、ずんぐりとしたシルエットが

 細枝に止まり、存在感があります。無言の鵙と針を持たない日時計が、冬の空気感の

 中で静かにたたずんでいます。             句集『茅花流し』より。



 №143   秋夕焼父断層のごと斜め      渡辺誠一郎(1950年~)

  秋の夕焼けは短く、深い色合いを持ちます。作者が父を見た句ですが、具体的な様

 子の描写はなく、受け取るイメージから想像するしかありません。斜めになっているの

 は、例えば傾斜したベッドに寝る様子かも、座って寄りかかる姿かもしれません。断層

 とはずれてむき出しになった地面の断面で、くっきりと年代を表す層が見られます。そ

 の断層を父の中に見たとき、言い尽くせない父との関係がそこに表れていると思うの

 です。                     句集『渡辺誠一郎俳句集』より。



 №142   秋の陽の日に日に奥へ厨まで  榎本好宏(1937~2022年)

  暦の上では8月上旬から11月上旬までが秋です。冬に向かって太陽は低い位置

 に昇るようになりますが、立秋の頃は約70度、秋の終わりには約40度まで傾くよう

 です。日差しは南向きの部屋から奥へと伸び、この句では台所まで届いています。同

 じ造りの家の方もいるかもしれませんね。台所と秋、といえば美味(おい)しい秋の味

 覚を連想するのは私だけでしょうか。麗(うら)らかな日差しに照らされて、ここで作る

 料理もより美味しくなる気がします。             句集『青簾』より。



 №141   顔一つ転がつてゐる花梨の実   松林尚志(1930年~)

  顔が転がっているとは花梨(かりん)の実のことのようです。秋に大きく黄色い実がな

 りますが、馴染(なじ)みが薄いのは渋みでそのまま食べられないからでしょう。のど

 飴(あめ)や果実酒が有名ですね。最大の特徴は香りで、木のそばはもちろん、追熟

 のために置いた部屋いっぱいに芳しい香りが広がります。少し不格好な形は確かに

 人の顔に似ているかもしれません。香りがいいのに生食ができず、歪(いびつ)な形

 の花梨には、有用さと不気味さの両方があるのかもしれません。

                               句集『山法師』より。



 №140   炉火あかり棚に眠らす熊の鈴    浅井民子(1945年~)

  
しんしんとした寒さに包まれていくと、恋しくなるのは暖房の明かりです。炉火とは囲

 炉裏(いろり)の火のことを言うようですが、暖炉やストーブなど、暖を取る炎を想像し

 てもあながち間違いではないでしょう。棚には熊避(よ)けの鈴が置いてあります。山

 歩きが楽しい秋は、熊が山々の実りに活動的な時期です。鈴は双方が距離を取りな

 がら、平和に暮らすための知恵と言えるかもしれません。しかしその鈴も雪の深まりと

 ともに眠る季節となります。                句集『四重奏』より。




  ≪十月≫


 №139   鰯雲どのビルも水ゆきわたり     中村安伸(1971年~)

  都会の高層ビルは鏡のような窓を持ち、外から室内が見えないようになっていま

 す。建物の全面を覆う窓には隣り合うビルや流れゆく雲がきれいに映るため、秋の

 鰯(いわし)雲がビルを泳ぐように見えるかもしれません。鏡面のビルはまるで澄んだ

 水のようで、人工の無機質なビルに自然の潤いが与えられたように感じられます。し

 かし雲は当然魚ではなく、ビルは潤いから懸け離れた存在です。あり得ない虚構の想

 像が、しかし美しく描かれています。         句集『虎の夜食』より。



 №138   長き夜の対になりたきカギ括弧     花谷清(1947年~)

  秋が深まり、冬至に向かって夜が長くなっていきます。虫の声を聞きながら過ごす

 夜は読書やそれぞれの作業もしやすいですね。カギ括弧は話し言葉や引用の文章な

 どをほかと区別する記号です。始まりと終わりの2カ所にありますが、まるで意思を持

 つように対になりたい、と書かれています。読んでいる小説の長いセリフ、書いている

 文章の引用部分、終わりが見えないようでも必ず言葉を終える対の記号が現れます。

 長い夜にも終わりがあるように。              句集『球殻』より。



 137   秋風や去年似合うた筈の服     奥名春江(1940年~)

  これ、私もある!という共感を繋(つな)いでくれるのも俳句です。昨年までぴったり合

 っていたお気に入りの服ですが、季節が巡り、奥から引っ張り出すと何かが違いま

 す。極端に体形が変わらずとも、身体の微妙な差異や好みのわずかな変化で服は似

 合わなくなるものです。そんな「あるある」にアクセントとなるのが季語でしょう。吹きす

 さぶ秋風は肌に冷たく、日ごとに寒さを募らせますが、この風は色づきゆく山々や自

 然を渡る風でもあります。                  句集『春暁』より。



 №136   芋の露懸命と云ふひとところ     三井量光(1941年~)

  気温が下がってくる朝晩は大気中の水蒸気が凝結し、露となって屋外の物の表面

 を覆います。芋の葉に集まった露は茎に繋(つな)がる中央に大きな玉を作り、やが

 て雫(しずく)となって落ちていきます。「ひとところ」とはある場所や同じ所という意味

 です。いま落ちるか、いま落ちるかという張り詰めた時間、露が懸命にこらえている場

 所があると受け取りました。しかし人間の懸命も似ていて、力を尽くし踏ん張るときの

 気持ちは一カ所に集まっているのです。         句集『椅子』より。



 №135   虫の声積みあげ宇宙ざわざわす  清水逍径(1940年~)

  秋の夜長です。草むらからはコオロギやキリギリス、スイッチョンなどさまざまな虫の

 声が聞こえてきます。その声の元に目を向けても姿は見えません。ただ夜の濃い闇が

 塊のように横たわっています。音を積み上げるというのは不思議な表現で、読む人に

 よって解釈が変わるでしょう。私は、重なり合う音や、草原全体に広がる声が質量をも

 って存在しているように受け取りました。同じ闇で繋(つな)がる空まで音が伝わり、宇

 宙が密(ひそ)かに騒いでいるようです。         句集『海の懐』より。



 №134   逆回りできる地球儀鳥渡る     長峰竹芳(1929年~)

  私たちが住む惑星、地球は自転しています。方向は西から東への回転です。売られ

 ている地球儀には北極から南極に通る軸があり、くるくると動かすことができますが、

 回る方向は自由です。地球儀としては当たり前ですが、実際にはあり得ない不思議な

 回転でしょう。秋になり渡ってくる鳥たちの方向感覚は地球の磁場や太陽の位置が大

 きく影響しています。回転の決まった地球の中で、鳥たちはさまざまな方角から飛んで

 くるのです。                         句集『直線』より。



 №133   玄関を出てあきかぜと呟きぬ    池田澄子(1936年~)

  作者の行動そのままです。外に行こうと玄関を出ると、吹いてきた風に思わず「あ

 きかぜ」と言葉がこぼれ落ちました。ひらがななのではっきりとした確信はないのかも

 しれません。古今和歌集には<秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおど

 ろかれぬる>という和歌がありますが、この句にも同じような感覚があります。鳥の声

 も木の葉の色も見た目には何も変わりませんが、肌で感じたわずかな風の冷たさが

 季節の移り変わりを告げます。               句集『此処』より。



 №132   雨音に取り巻かれたる土俵かな 
                         綾部仁喜(1929~2015年)


  相撲や土俵は秋の季語となっています。テレビでは一年を通して大相撲が行われま

 すが、プロではない地元の相撲は秋祭りで開催されることが多いようです。確かに私

 の地元でも神社の秋祭りで子ども相撲をしていました。立派な土俵となれば、屋外に

 柱と屋根付きで建てられているものもあります。使われないときはシートがかけられて

 いて、なんだか寂しそうです。秋の長雨でしょうか、土俵を取り囲むのは人々の歓声で

 はなく静かな雨音です。                   句集『寒木』より。



 №131   雷兆す体よ僕に付いてこい       秋尾敏(1950年~)

  
今にも雷が鳴り出しそうな空模様です。雨と落雷に備え、ここから立ち去るために

 動かなければ、と捉えることもできるでしょう。もしくは、全く意味を切り離して読むこと

 もできます。雷のきらめきのように思考が次々と湧いてくると、体や行動が考えに追

 い付かないことがあります。思考と身体をつなげるのは脳の電気信号です。「僕」とい

 う意識と身体感覚を分けて表現するとともに、素直にはやる心と体が描かれているよ

 うに思います。                     句集『ふりみだす』より。




  ≪九月≫


 №130   蘆原にいま見ゆるものすべて音  小川軽舟(1961年~)

  アシは日本の在来種で、湿地帯に群生する高さ3メートルほどの植物です。秋にな

 ると穂が実り、風とともに擦れ合う音が一面に広がります。作者の目の前にもアシの

 大群落があるのでしょう。視界のすべては覆い尽くされ、耳にはずっとザワザワと風

 の渡る音が届きます。「見ゆる」という視覚で切り取られたものには、揺れる穂や飛ぶ

 鳥の姿もあるでしょう。詩の言葉の力によって、それらすべてが一瞬一瞬で切り取ら

 れる「音」へと変わります。                  句集『手帖』より。



 №129   遅刻するつもりの鞄秋の雲      谷さやん(1958年~)

  登校や出勤など、毎日時間を守って暮らす人も多いでしょうが、麗(うら)らかな秋

 の日には、サボってどこかに行きたいという気持ちも湧いてくるかもしれません。今日

 はもう間に合わない!と諦めたときに、遅刻は避けられないがまだ確定はしていない

 という空白の時間がやってきます。あまりほめられはしませんが、一種の解放感がある

 でしょう。私も、私の鞄(かばん)も、これから少しの間だけは自由です。秋の雲は澄

 んだ青空にのんびりとたなびいています。      句集『空にねる』より。



 128   踊りの輪止まりて夜風ほどけゆく  抜井諒一(1982年~)

  コロナ禍と言われてから年単位の時間が過ぎましたが、近頃は感染対策を取りつつ

 お祭りも行われるようになりました。俳句の「踊り」は盆踊りを指します。やぐらの周り

 に輪を作ったり、列を作って街中を練り歩いたりと形はさまざまですが、どちらにも真

 剣に楽しんでいる人々の熱気があります。曲が終わると踊りは止まり、涼しげな夜風

 が吹いてきます。参加者の緊張がほどけるように、人々の熱気に捕らわれていた風

 も解放されたような気がします。              句集『金色』より。



 №127   酒止めようかどの本能と遊ぼうか
                         金子 兜太(1919~2018年)


  季語のない無季の俳句です。諧謔(かいぎゃく)味のある内容で、川柳と違うのか?

 と聞かれたら難しい質問です。しかし、俳句を作るときの客観的な観察力が確かにあ

 ります。快楽を伴う習慣化した欲をやめること、依存性の有無にかかわらずつらいこ

 との一つですが、その渦中にいる自分自身からは一歩引いて、他人事(ひとごと)のよ

 うな余裕があります。酒一つやめたぐらいでは、自分を突き動かす衝動は尽きないの

 だ、まだまだ別の本能があるのだ、という力強さがうかがえます。

                                句集『両神』より。



 №126   仮の世に住めばまことや小鳥来る
                            小檜山 繁子(1931年~)


  仮の世とは私たちが生きるこの世のことです。命のはかなさや次々と移り変わる世

 界の無常を言い表したものですが、古典の仏教観も含まれた表現でしょう。しかし今

 を生きる私たちの人生が仮のものと言われるのは違和感があります。それを逆手に

 取り、仮の世にいればまことばかり起きるとシニカルにとらえた句ではないでしょうか。

 秋になると色とりどりの小鳥たちがやってきます。それも仮の世に起きるまことをしみ

 じみと実感する出来事の一つです。           句集『流水』より。



 №125   嬰生まるはるか銀河の端蹴つて
                         小澤 克己(1949~2010年)


  「嬰(えい)」とは生まれて間もない赤ちゃんのこと、「生まる」は生まれるの古語的な

 表現です。文は倒置法で、銀河の端を蹴って赤ちゃんが生まれてきたという意味でし

 ょう。人になる前の魂のありかに思いをはせたのかもしれませんし、赤ちゃんが寝か

 されている布団から夜空に向かって足が伸び、銀河を蹴っているという情景に取れる

 かもしれません。誕生の躍動を記すとともに、わが子が生まれたときの澄み切った秋

 の夜が、俳句を通して残り続けます。        句集『オリオン』より。



 №124   天高し高天原の記紀神話    大高 霧海(1934年~)

  記紀神話は日本書紀、古事記を合わせた日本神話のこと、高天原はその神様がい

 る場所です。他の宗教では、天国や地獄など、異界には入り口があり、私たちの世界

 とは全く違う場所だと感じますが、日本神話はどこか人間と神様の行き来が地続き

 で、世界が曖昧に重なり合っている印象があります。天高くと表される秋の空です

 が、明確に何キロまでなのか答えはありません。人が感覚でつかむ場所の中に、季

 節も神の居場所もあるのかもしれません。    句集『鶴の折紙』より。



 №123   いわし雲いわし無数が空に飢ゑ  宮坂 静生(1937年~)

  いわし雲は巻積雲といい、高積雲のひつじ雲より高い所にある、薄く、すぐに消えて

 しまう雲です。実りの秋、気持ちのいい空に対して、飢えという逆の印象を作者は見い

 だしています。飢えはひとりのものではなく、無数のいわしたちのものです。空のいわ

 しは何を食べているのでしょう。数が増え過ぎたのか、環境が変わったのか。この句

 に託されたものが、この世の一体何に対応しているのか、読者それぞれの中にも答え

 があると思います。                      句集『宙』より。



 №122   移り行く二百十日の群鴉   高浜 虚子(1874~1959年)

  
本日は9月1日、暦の雑節で二百十日という日に当たり、別名は厄日です。謎の数

 字は春分から数えての日数で、稲が開花を迎える頃の台風が頻繁に来る時期とし

 て、油断せぬよう暦に載っています。また、昭和になってからは防災の日として設定さ

 れました。これは関東大震災の日に当たるためです。掲句では二百十日の空を鴉

 (からす)が群をなして飛んでいきます。なんとも言えない不吉な空ですが、言葉にする

 ことで心構えを準備することができるはずです。       句集『虚子全集』より。




  ≪八月≫


 №121   草いきれ吸って私は鬼の裔(すえ) 阿部なつみ(2004年~)

  高校生の俳句大会があります。俳句甲子園はコロナ禍で3年ぶりに松山市で現地

 開催されました。東北からは弘前、山形東、磐城の3校が団体表彰され、個人の部

 最優秀賞は岩手・水沢高の生徒という優秀さ。野球でも東北勢が活躍しましたが、俳

 句の方でも白河の関を越えたようです。掲句はその最優秀句。中央政権にまつろわ

 ず、鬼と呼ばれたみちのくの蝦夷(えみし)の歴史。夏のむっとする草の匂いを嗅ぐ

 と、自分の中のその歴史が立ち上がってきます。   第25回俳句甲子園より。



 120   新盆や雲より山のやはらかし     赤間 学(1948年~)

  先祖や死者の霊をお迎えするお盆ですが、その方が亡くなってから最初に迎えるも

 のを新盆といいます。迎える私たちにとっては故人を偲(しの)ぶ特別な行事ですし、

 死者にとってはあの世に行ってから初めての帰郷になるわけですから、特別な手順

 を取る地方もあるようです。山は緑、もこもこと柔らかそうという視覚的な特徴もありま

 すが、空から帰る霊にとっては故郷の山の方が温かく感じる、そんなニュアンスも含ま

 れているかもしれません。                 句集『福島』より。



 №119   赤のままこぼすつもりはなかりけり 中岡 毅雄(1963年~)

  赤のままはイヌタデのことです。秋の道端に、紅紫色の花穂が重く垂れています。

 花の粒は昔からままごと遊びのご飯に使われてきました。その花のことを詠んだの

 でしょうか、こぼすつもりはなかったのだと残念そうな言葉が添えられています。誰だ

 って何だってこぼしたい人はいません。仕事の成果でも、イヌタデの花の粒でも、大切

 な命でもそうです。しかしそのつもりはなくても、こぼれてしまうもののなんとこの世に多

 いことでしょうか。                      句集『啓示』より。



 №118   くさぐさの光おとろへきりぎりす   井越 芳子(1958年~)

  8月も半ばを過ぎ、まだ暑いといっても夕暮れには虫の音が聞こえるようになってき

 ました。暦を見れば既に秋。気候変動が叫ばれる世の中ですが、季節は巡っている

 ようです。真夏とは違い、生い茂る草のきらめきも静かになっているような気がしま

 す。それは日差しが落ち着いたとも、草の緑が移ろったとも思いますが、一番は受け

 取る私たちの気持ちが季節で変化したのでしょう。草の陰にいるキリギリスの鳴き声

 が秋を深めています。                 句集『雪降る音』より。



 №117   人界の真闇に吊るす蛍籠        高岡 修(1948年~)

  現代は子どもが捕まえた昆虫を入れることが多い虫籠ですが、古来は粋な人が虫

 の姿形、声を観賞することが主でした。また、人界は人間界のことです。文明や人の

 英知の行き届いた世界のはずですが、その中の光の届かない真の闇を作者は描い

 ています。実際の暗闇でもあり、人の愚かさの比喩でもあるのでしょう。吊(つ)るされ

 るのは捕らえられた蛍の光です。全てを照らす力はありませんし、その淡く儚(はか

 な)げな光は危うい美しさのようにも思います。   句集『蝶の髪』より。



 №116   片恋の記憶に少し金魚の朱      矢野 玲奈(1975年~)

  片恋は片思いのこと。少し古風な言い方になるのでしょうか。振り向いてもらえない

 けれど好きな人がいたとき。そのことを思い出すと金魚の朱色がよぎります。そのフ

 レーズだけで夏祭りに行ったエピソードが浮かんでくるのです。浴衣を着て、すくった

 1匹の金魚を袋に入れて、相手の後ろを付いて行ったのでしょうか。思い出の中の金

 魚の色の部分はほんの少し。ほとんどは、好きだった人や揺れ動いた自分の気持ち

 でいっぱいです。                  句集『森を離れて』より。



 №115   炎昼へ製氷の角(かく)おどり出る
                        秋元 不死男(1901~1977年)


  炎昼は真夏の炎天下の真昼のことです。太陽が最も高く輝き、その下の私たちをじ

 りじりと焼いていきます。この言葉は俳人の山口誓子が句集の名前として使い、広ま

 った季語だそうです。季語を調べるときは歳時記を開きますが、時代とともに改訂さ

 れ言葉は更新されていきます。そのゆだる暑さの中へ取り出した氷が転がっていきま

 す。しかし氷単体ではなく、氷の角一つ一つに注目し、その躍動を描いている句です。

 勢いと涼しさが味わえます。                 句集『瘤』より。



 №114   一日を使ひきつたる夏椿(つばき)  尾池 和夫(1940年~)

  
夏椿は沙羅双樹や沙羅の木の名を持っており、平家物語の冒頭にも出てきます。

 盛者必衰の例えにされるのは、咲いた花が一日で散る、一日花と呼ばれる特徴のた

 めでしょう。作者の自解には、妙心寺東林院の樹齢300年、高さ15メートルの夏椿

 の様子が書かれています。たくさんの花が次々と開き、残された時間をたっぷりと使

 って散るのでしょう。大木の落花も壮観ですが、私たちの身近にある夏椿も変わらず

 に一日を咲き尽くしています。          句集『尾池和夫集』より。




  ≪七月≫


 113   昼顔や嫌ひな人に会ひにゆく    廣瀬 悦哉(1959年~)

  おっくうになることってあります。苦手なことをしなきゃいけなかったり、始める前から

 尻込みしたり。嫌いな人に会いに行くこともそう。終わればきっとたいしたことではない

 んでしょうが、それまでの面倒くさい気持ちも本当です。一番気持ちが重くなるのは、

 会う前に思い悩む時間でしょう。昼顔はどこにでも咲いている花です。住宅街の路地

 の金網にも、ちょっとした草むらの中にも。鬱々(うつうつ)と歩く自分の目の端にさり

 げなく優しく咲いています。               句集『夏の峰』より。



 №112   点滴や梅雨満月の高さより       石寒太(1943年~)

  病院のベッドに横たわり、自分の手首には点滴がつながれています。細い管は見上

 げる高さのパウチから伸び、その向こうには窓が、そして梅雨時期の満月が目に入り

 ます。句は倒置法で、月と同じ高さから点滴が落ちてくるという情景です。具体的な説

 明はないのに、作者の視点が明瞭に描かれます。点滴の中にも満月の光が混じり、

 肉体に染みこんでくるようです。しかし雲間から覗(のぞ)く梅雨の月ですから、どこか

 不安げな光だとも思います。               句集『風韻』より。



 111   泳ぐなり水没都市の青空を     堀田 季何(1975年~)

  泳ぐのは暑い日が一番です。焼けるような砂浜やプールサイドからざぶんと水に飛

 び込むとき、爽快感と解放感が突き抜けます。ところがこの句で泳いでいるのは、水

 没した街の上です。SF作品のような世界ですね。水面には青空が映り、泳ぐ人がぽ

 つりと浮かんでいます。足元の深い深い水の底ではビル群が沈み、廃墟(はいきょ)

 がかつての生活を静かに語ります。俳句は短く、正直表現としてできることが少ない

 のです。しかし限界はないと感じる句です。  句集『人類の午後』より。



 №110   怒りとはこんな日暮れの草いきれ  岸本マチ子(1934年~)

  夏の蒸すような熱気の中、草むらは植物の青臭い匂いで満ちています。これが草い

 きれです。「いきれ」は漢字で「熱れ」と書くそうで、むっとするような熱気や匂いのこと

 を指します。夕方ともなれば日中の暑さや湿気が凝縮され、草の匂いも濃さを増すよ

 うな気がします。作者にとっての怒りもそんな感覚だというのでしょう。爆発するような

 怒りではなく、押し殺したやりきれない怒りだと私が感じるのは、傾いた夕日の色のせ

 いかもしれません。                   句集『鶏頭』より。



 №109   たましひの一瞬浮いて茅の輪かな   石嶌岳(1957年~)

  神社の境内に茅(かや)でできた大きな輪が組まれています。神社で違いはありま

 すが、茅(ち)の輪(わ)は名越の祓(はらい)という祭事で厄除(やくよ)けを祈願しく

 ぐるものです。人がひとり頭を下げて入れるほどの大きさで、またぐ足を上げるとき

 は一瞬異界へ入るような、自分の中を何かが透過するような不思議な気持ちになり

 ます。この句でもそんな感覚を表しているのかもしれません。湿気と熱気がまとわりつ

 くこの時期。古来より疫病の収束を願い、人々の祈りが集まります。

                                句集『非時』より。



 №108   黄蝶から黄のチューリップが遠い   栗林 浩(1938年~)

  蝶(ちょう)がチューリップへ飛ぶように見えたのでしょうか。距離があり、止まるまで

 は時間がかかりそうです。一部が同じものを提示されると、私たちは違いについて考

 え始めます。淡い蝶の黄色と鮮やかなチューリップの黄色。軽やかな羽の質感としっと

 りとして肉厚な花びらの質感。遠い、と表現されたものは、実際の距離も示しますが、

 観念的な存在の距離も指すように思います。この句で二つは重ならず、永遠に届かな

 いままです。               句集『SMALL ISSUE』より。



 №107   富士を去る日焼けし腕の時計澄み
                         金子 兜太(1919~2018年)


  日焼けをするほどの時間を富士山で過ごしたのでしょう。日本一の山ですから、そ

 の感慨もひとしお。去らなければならない切なさが胸に広がります。対照的に腕時計

 の文字盤は澄みきり、もう帰る時間だと静かに告げているようです。霊峰を味わった

 清々(すがすが)しさも込められているでしょう。富士山の滞在時間と時計の示す今の

 時間、日焼けした黒い腕と透き通った時計のガラス盤。物を提示しているだけなのに

 それぞれの存在が重層的に響き合います。    句集『少年』より。



 №106   炎天の手首は影を持ち歩く      あざ蓉子(1947年~)

  連日、暑い日が続いています。太陽は燃え盛り、容赦なく降り注ぎます。その空の

 下を歩いてゆく自分自身の手首に注目した句です。「影を持ち歩く」とは不思議な表

 現ですね。はじめは腕時計の影かと思いましたが、なるほど、何も着けていない自分

 の手首にも、日の下にいれば影の濃淡があります。わずかな角度が常に影を生み出

 し、光が強ければより色を濃くしていきます。私たちの知らないうちに、その暗さはそっ

 と寄り添っているのです。             句集『天気雨』より。



 №105   目礼の距離を詰めざる人涼し     大島雄作(1952年~)

  
「涼し」というのが夏の季語なのは、焼けつくような暑さの中でわずかに感じる涼しさ

 も嬉(うれ)しく感じるからです。どんなときに涼しく思うのかは俳人の目の付けどころで

 すが、この句では会釈した方のそれ以上は踏み込んでこない距離を読んでいます。人

 によって、熱く近づいてくる方、一定の距離を踏み越えてこない方、パーソナルスペー

 スはそれぞれです。個人的には距離を感じる人を寂しく思いますが、真夏にはそれも

 ちょうどいいのかもしれません。          句集『明日』より。




  ≪六月≫


 №104   馬だつた頃の我立つ夏怒濤     遠山 陽子(1932年~)

  真夏の太陽の下に広がる海。岸壁に立ち、しぶきを上げる波を見ているように思い

 ます。吹き上げる風が水を散らし、自らの髪を荒々しくなびかせるとき、自分が大自

 然の中に立つ馬であるように感じたのではないでしょうか。馬のようだという比喩では

 なく、自分がかつて馬であったと言い切り、その自分と今の自分とが地続きだと表現し

 ています。力強い断定的な表現が、夏の怒濤(どとう)と合わせられ豪快な生命力を感

 じさせます。               句集『遠山陽子俳句集成』より。



 103   五雨よ永い永い昼寝ということか  赤野 四羽(1977年~)

  雨が降っています。降り続けて何時間がたち、何日がたったのでしょうか。屋根に打

 ちつけるランダムな音を聞きながら身の振り方を考えます。今日も出かけられないし、

 家の中のことも億劫(おっくう)、耳に残る音はいつまでも消えない。この動けない状態

 はまるで昼寝のようです。本来は体を休め、暑さをやり過ごすための眠りです。心地よ

 い響きのはずが、この句ではけだるさが全面に出ています。それでも、心身を休める

 ひとときではあるのかもしれません。       句集『ホフリ』より。



 №102   かき氷黙つてみづになつてをり   辻 美奈子(1965年~)

  知らないうちに溶けてしまったのでしょう。かき氷が水になっていたという情景です。

 「黙つて」という表現から、かき氷が擬人化されており、まるで意思を持って静かに溶け

 たように感じられます。すると平仮名で表された「みづ」も、ただの水ではなく得体(え

 たい)のしれない不思議なものに見えてきます。かき氷がかき氷でなくなってしまう、

 人であれば痛みすら感じるような状況。このように黙って消えていくものは思いの外あ

 るのでしょう。                   句集『天空の鏡』より。



 101   五月雨の降り残してや光堂  松尾 芭蕉(1644~1694年)

  旧暦での5月は現在の5月下旬から7月上旬ごろ、梅雨真っただ中です。この句は

 芭蕉が平泉の中尊寺金色堂を訪れた時のもの。今はコンクリート造りの中にお堂が

 ありますが、当時も風雨をしのぐ覆堂があったようです。単に屋根で雨が当たらないと

 も読めますが、じめじめとした物を腐らせる梅雨の中で、長い時を超えて受け継がれ

 ている光堂という感慨もあるでしょう。暗い雨がそこだけないかのように光堂は輝いて

 いたとも受け取れます。              『おくのほそ道』より。



 №100   梅雨傘の重みに馴れて来て楽し  星野 高士(1952年~)

  各地が梅雨入りしています。どんよりした雲、雨が降っていなくても湿り気を帯びた

 風。いつ降るかもしれないので、出かけるときには傘をまめに持ち歩いています。荷

 物が増えるのは億劫(おっくう)ですが、一方でその重みにだんだんと楽しさを見いだ

 しているのがこの句。閉じた傘を持っているのかも、雨に差している傘かもしれませ

 ん。傘の重心や雨をはじく音、それは雨時期に味わえる感触です。季節への小さな

 気付きが心を軽くする妙薬なのかもしれません。   句集『顔』より。



 №99   夏草をはがし太古の遺跡掘る   大関靖博(1948年~)

  夏はさまざまな植物が勢いを増しますが、地に生い茂る夏草もその一つです。みし

 みしと地面を埋め尽くすように伸びる緑の葉。それを取り除いて遺跡を掘っています。

 「はがす」という言葉は面を捉えた表現です。発掘作業の最初にはびこる夏草をすっ

 かり取り除いたのでしょう。そこだけぽっかりと黒い地面が見えています。遺跡は古代

 の生活を知ることができる過去のもの、一方で夏草は今を生きるものです。その対

 比が過去への思いを際立たせます。         句集『大夢』より。



 №98   逢ひたくて蛍袋に灯をともす    岩淵喜代子(1936年~)

  知人からカンパニュラをいただいたので、季語かしらと調べてみたらホタルブクロの

 ことでした。カンパニュラは小さな鐘の意味。淡いピンクの釣り鐘の形の花の中に、黄

 色いおしべがそっと収まっています。蛍袋の名は、子どもが蛍を入れて遊んだという

 説があるそうです。作者はそれを恋の灯火(ともしび)として描いています。蛍袋に灯

 (あか)りをともし、自ら逢(あ)いに行ったのでしょうか。恋には情緒と行動力が必要か

 しら、などと考えてしまいました。    句集『蛍袋に灯をともす』より。



 №97   きよお!と喚(わめ)いてこの汽車はゆく新緑の夜中
                         金子 兜太(1919~2018年)


  現在の仮名遣いなら「きょお!」という音、蒸気機関車の短く鋭い汽笛の音です。「喚

 く」という表現に汽車の生々しさを感じます。「この汽車」とありますから、作者は今まさ

 に真夜中を移動しているところです。当時の暗い沿線を汽車の明かりだけが照らして

 いきます。映し出されるのは新緑の枝葉ですが、闇の中の若葉は怪しく、沸き立つよ

 うな感傷がある気がします。汽車に乗る作者も同じようにたぎる心を内に秘めている

 のかもしれません。                  句集『少年』より。



 №96   穀象に或る日母船のやうな影   岩淵 喜代子(1936年~)

  コクゾウムシは頭部が象の鼻のように伸びた甲虫の仲間で、米びつや貯蔵米に発

 生します。米の中で小さな芋虫から3ミリほどの小さな成虫へと成長しますが、虫を除

 けば米は食べられます。私も昔うっかり湧かせてしまい、見つけたときは背筋がぞわっ

 としました。蓋(ふた)を開け、光を当てられた穀象にかかる影はのぞき込む人間のも

 のでしょうか。小さいが象の名を持つ穀象と、まるで宇宙船のような人間との大小の発

 見。俳人のミクロな視線が届いています。     句集『穀象』より。



 №95   頬杖の机上青野に続くかな    小檜山 繁子(1931年~)

  
雪解け後の春の野、秋の草花揺れる花野、冬の枯野と、野原の表情も季節で豊か

 です。夏の青野は背の高い草が生い茂り、草の青くささが鼻孔を突きます。机で考え

 事でもしているのでしょうか。頬づえをつき、視線は窓の外にある青野に向けられてい

 ます。机が野原と地続きになっているという発想の豊かな句ですが、実際ではなく心で

 感じた風景です。繋(つな)がる机に向かう人は、一時の雑事から離れ、野原で夏の風

 を感じているに違いありません。          句集『乱流』より。




  ≪五月≫


 №94   ぎしぎしや来た道すぐに振り返る   津田 このみ(1968年~)

  この句を読んでくすっと笑ってしまったのは、「来た道」から「来し方」という言葉を連

 想したからです。「来し方行く末、自らの半生を振り返り…」なんて、自分自身の過去

 について少し大げさに思いを巡らすこと、ありますよね。ところがこの句では、しみじみ

 する間もなくすぐに振り返ってしまいます。せっかちなのか、「あれ道間違った?」と思

 ったのか、どちらにせよ勢いと元気を感じました。道端のギシギシの姿も名前もユー

 モラスです。                    句集『木星酒場』より。



 93   緑陰を出ればわが影新たなり   日下節子(1939年~)

  日差しが強くなってくると緑の木陰に入りたくなります。緑陰で涼しい風を感じながら

 ゆったり過ごすのも、移動の汗を拭き終えてせかせかと歩き出すのも自由です。葉の

 影は重なりながら、ちらちらと光の濃淡を変えていきます。淡い光に照らされて自分

 の影もぼんやりとしますが、そこから出ればまたくっきりとした輪郭になるでしょう。影

 が新しくなったように、涼しさに癒やされた自分の気持ちもまた一新されて次の一歩

 を踏み出すのです。                  句集『店蔵』より。



 №92   濡れをるか泉の底の石の粒    島田 牙城(1957年~)

  水の中にあればその石は濡(ぬ)れているに違いありません。しかし作者はその事

 実に疑いを投げかけています。濡れるということは物の表面に水が付くこと。それが

 分かるのは乾いた空気中でのことです。水中にある物が濡れるという認識は成り立

 つのでしょうか。また、泉は水が湧き出る神秘的な存在です。石の粒も人の手の届か

 ない物のように思えてきます。本当に石が濡れているのか、私たちに確認する術

 (すべ)はあるのでしょうか。人の認識に迫る句です。

                              句集『袖珍抄』より。



 №91   火口湖は日のぽつねんとみづすまし

                       富澤 赤黄男(1902~1962年)

  太古の噴火口が、時を経て水をたたえた広大な湖となることがあります。火口は山

 の頂上でしょうから、近づく人も少なく周囲は深い緑に覆われている、そんなイメージ

 が私の中にはありました。湖にあるのはぽつんと映る太陽。これもどこか寂しげで

 す。みずすましのころりとした姿が水面へ浮かび、そして消えていきます。作り出し

 た波紋は、名前の通り澄んだ水の様子を象徴しているようです。雄大な自然と1匹の

 虫の対比が美しく描かれます。          句集『天の狼』より。



 №90   ほととぎすあすはあの山こえて行かう  

                       
種田山頭火(1882~1940年)

  山頭火は僧となった後、放浪の旅と一時的な定住を繰り返しながら一生を過ごしま

 した。句集の数行前に「帰庵(きあん)」とあるので、住まいに戻り当面の休息を得た

 後の句なのでしょう。明日を明るく展望することができるのは、足を止め、今日を振り

 返る余裕のある時です。自由律の寂しげな句の多い山頭火ですが、この句やその前

 の句、<朝露しつとり行きたい方へ行く>は五七五のリズムに近く、どことなく安らか

 な気持ちが表れている気がします。       句集『草木塔』より。



 №89   薔薇匂ふいつも何かの潜伏期  橋本 善夫(1957年~)

  潜伏期とは、ウイルスが人体に入ってもまだ症状が出ない期間のこと。このコロナ

 禍で随分身近になった言葉です。作品は2005年のもので、作者の詩的発想に普

 遍性があると、時代を超え場面を変え読む人の心を動かすのだと思いました。発症

 していないが何かの病気にかかっているかもしれない、しかし自覚がなく、不安の気

 配だけがある状態。この薔薇(ばら)も匂いだけで花の姿は見えません。かぐわしい

 匂いが恐ろしさと響き合っています。       句集『潜伏期』より



 №88   燕来る隣の駅が見える駅   塩見 恵介(1971年~)

  私が以前暮らした街の私鉄は、駅と駅との間がとても短く、初めて乗ったときには

 驚きました。バスでの移動のような距離感で、地域に密着して運行していたのでしょ

 う。この句の駅からも隣の駅が見えるようで、そんな近さなら歩けるのでは?と、くす

 っとしますね。駅には燕(つばめ)がやって来ますが、毎年ここで巣を作るのでしょう

 か。南の国から来る燕の飛距離と、ユーモアのある隣の駅との距離の表現が、自然

 に対比されています。         句集『隣の駅が見える駅』より。



 №87   代掻きて山々坐り直しけり    太田 土男(1937年~)

  
代掻(しろか)きは田植えの準備です。田の土が掘り返されたところへ水路を開け、

 でこぼことした土塊と水をどんどん掻き混ぜていきます。すると水の中で土がならさ

 れ、粒が均質になり、田は穏やかな水面を湛(たた)えます。鏡のような水田の表面

 には、雲や木々、遠くの峰々が映り込みます。山々は居住まいを正し、悠然とそびえ

 ているのです。擬人化された山の表現が、代々続く人の営みに敬意を示し、今年もま

 た時期が来たのだと見守っているかのようです。   句集『花綵』より。




  ≪四月≫


 №86   レタスちぎる血の一滴も流さずに   小泉 瀬衣子(1963年~)

  サラダによく使われるレタスですが、包丁を使わずに大きさを手で調えます。同じ玉

 状の葉物野菜の白菜やキャベツよりも、葉脈や繊維が薄く切りやすい印象です。レタ

 スがちぎれるとき、この句が言うように血が出るはずはありません。しかし言葉になる

 と、否定されていても一瞬、レタスの切り口から血が流れる様子が脳裏に浮かびます。

 これも言葉の作用の一つなのでしょう。すると、ちぎるという自分の行為が、少し恐ろし

 く感じられるのです。                   句集『喜望峰』より。



 85   動かぬ蝶前後左右に墓ありて   西東 三鬼(1900~1962年)

  倒置法で、文末の後に文頭に戻るように読みましょう。前にも後ろにも墓石があるこ

 とは霊園では自然な景色です。そこに蝶(ちょう)が止まっているのも何もおかしくあり

 ません。しかし、蝶が動かない理由がお墓に囲まれているためだと読むと、蝶が命の

 行く末に慄いているのか、見えない死者を感じ取っているのかと想像が広がります。

 いつのまにか蝶に感情移入している自分にも気付かされました。軽やかな蝶と重々

 しい墓石の対比も効いています。            句集『夜の桃』より。



 №84   市電一輛雨晒し花晒し         仲村 青彦(1944年~)

  市電といえば、路面電車を指すことが多いでしょう。今はいくつかの大都市に残る

 ばかりで、田舎住まいの私はあまりお目にかかれません。句は停車している様子で

 しょうか。一輛(りょう)編成の市電が、春の雨に打たれるままにあります。雨だけでは

 寂しいばかりですが、散り落ちる桜の花びらが加われば、とたんに華やぎますね。とい

 っても雨曇りの中の散華ですのでしっとりとした情緒です。歴史ある市電の味わいも

 そこに馴染(なじ)んでいくように思います。       句集『夏の眸』より。



 №83   いつの日か椿の好きな人に嫁ぐ   岩田 由美(1961年~)


  自生する藪椿(やぶつばき)のような品種もありますが、椿は庭で、というイメージが

 あります。将来の結婚相手に思いをはせるのは楽しい想像の一つ。どうせなら同じも

 のを好きでいたいものです。一緒にどの位置に椿を植えようか、どんな家に住もうかと

 いう想像も広がります。素敵(すてき)な相手に出会うには、自分の好みを把握し伝え

 ることも大事なことかもしれません。もちろん幸せは人それぞれ。どんな相手でも、ど

 んなシチュエーションでも構わないのです。       句集『春望』より。



 №82   からだごと引き寄せらるる花ミモザ  江中 真弓(1941年~)

  ミモザの花が咲いています。真黄色の細かな花が房状に連なり、木の枝からはみ

 出さんばかりです。遠くからもすぐ分かりますね。その木の様子に作者は惹(ひ)かれ、

 近づきましたが、まるで頭の先から爪先までが勝手に吸い寄せられたように感じまし

 た。小さく可憐(かれん)な花も絢爛(けんらん)豪華な花もありますが、全ての花に魅

 力、吸引力、あるいは圧力といってもいいかもしれない不可視の力があります。人は

 それにとらわれるのを楽しんでいるのかもしれません。

                                句集『六根』より。



 №81   あす知らぬ楽しさ桜さくらかな    村上喜代子(1943年~)

  少しずつ桜がほころんできました。地域によっては咲いた所も、散り始めた所もある

 でしょう。同じ国なのに細長い日本列島の不思議です。この句で詠まれている桜は、

 どんな状態でも当てはまります。今私が見ている花が、明日満開になるか、明日花吹

 雪になるかは分かりませんが、それはどきどきして待つような楽しさの一つです。桜で

 なくとも明日がどんな日かは誰も知りません。知らないことを楽しむように、毎日を迎

 えたいものです。                      句集『軌道』より。



 №80   すかんぽや貸して戻らぬ一書あり  大島 雄作(1952年~)

  田んぼの脇や土手に生えている背の高い草。茎は太く節があり、紅紫色の粒のよ

 うな花を付けます。食用にもでき、そのまま茎をかじると酸味がするそうですが、私は

 かじったことがありません。そのすかんぽと取り合わされるのは、知人に貸して戻って

 こない本。ほかの重々しい植物が季語なら蔵書を惜しんでいるように感じますが、すか

 んぽだとそれほど問題にはしていない様子。しかし酸っぱさが、少しの悔しさを表して

 いるようにも思います。                  句集『一滴』より。



 №79   蝶ひかりひかりわたしは昏くなる  富澤 赤黄男(1902~1962年)


  
明確な映像の句もありますが、読者により印象が変わる句もあります。蝶(ちょう)が

 発光することも、反射することも厳密にはありません。しかし繰り返された「ひかりひか

 り」という言葉で、明るく光を翻しながら飛ぶ蝶の様子が思われます。「昏」の象形文字

 は「人の足元に日が落ちた様子」だそう。作者はメランコリックな昏(くら)さの中にある

 ようです。蝶とは対照的に、ゆっくりと寄せるような日の昏さが、作者の身に降りている

 ように思います。                     句集『天の狼』より。




  ≪三月≫


 №78   夕霞木霊の返事遅くなる       佐藤 みね(1941年~)


  春の夕暮れ、淡い日没の光が街や木々を照らします。その間を縫うように霞(かす

 み)がたなびき、紗がかかった視界は幻想的な景色です。木霊(こだま)は声の反響

 も指しますが、表記から想像したのは、木に住む精霊や樹木自身の魂の姿の方です。

 霞の中で彼らの声は届きづらくなるのでしょうか、いつもより遅れて返事が来ます。木

 霊同士の会話かも、作者が交信しているのかもしれません。普通の目では捉えられ

 ない彼らが、俳句に縫い止められています。     句集『稲の香』より。



 №77   長生きの(おぼろ)のなかの眼玉(めだま)かな  金子 兜太(1919~2018年)


  ガラスの器を洗い片付けながら、丁寧に重ねていく様子を思い浮かべました。光を

 通す透明な色が、器の厚さや模様によってだんだんと重さを持ち、灰色がかっていき

 ます。2月の空の方はどうでしょうか。まだ残る雪空の色、晴れていてもどこか寂しそ

 うな薄い青い色をしています。それは確かにガラスを重ねていったときのような色合い

 です。比喩により、ガラスの持つ危うさや割れそうな質感が、美しさとともに空に投影さ

 れています。                         句集『磁場』より。



 76   屈伸の少年に春うごきだす       酒井 弘司(1938年~)

  春になり気温が上がると、しばらく見ていなかった虫や木の芽や花が少しずつ新し

 い色を見せます。それはまるで春というスイッチが入り、自然全体が動きだしたかの

 ようです。その中で少年は膝を曲げ伸ばし、元気に体を動かしています。人が季節を

 変えることなどできませんが、この句では少年が春を呼んできたかようです。彼は春

 が動きだす前に、はつらつと運動をしています。子どもには季節を超えるエネルギー

 があるのだとも読めますね。                 句集『地霊』より。



 №75   春炬燵うしろすがたのみんな無垢    成井 惠子(1937年~)


  春の初めは肌寒く、暖房器具をしまうのもためらいがち。実際、寒の戻りでストーブ

 や炬燵(こたつ)をつけ直すこともありますね。春に出しっぱなしの炬燵に何人かであ

 たる状況ですが、作者には彼らの背中が、純粋で無邪気に見えたといいます。その

 様子を想像して、なんだか納得してしまうのは私だけでしょうか。特別なことの起こら

 ない普通の日、寒さから誰とも言わずに寄り合う炬燵。邪念のない素直な気持ちが自

 然と集まったのかもしれません。                句集『草結び』より。



 №74   春光の野に飛ばさるる紙は鳥      中西 夕紀(1953年~)


  春光は、文字から日差しを想像しますが、詩歌では光を含んだ春の景色全体も表し

 ています。ほうぼうで萌(もえ)え出る芽の緑色や所々で咲き始めた花の色、ビルや道

 路のような無機物でさえもどことなく暖かな色合いです。その春もようの野原に飛ばさ

 れた紙は、風にあおられ舞い上がり、鳥のように飛んでいきました。春の気配に満ち

 あふれる野にでれば、命を持たない薄紙もすべて鳥の羽ばたきです。大胆な比喩が

 季節の躍動感を伝えています。             句集『くれなゐ』より。



 №73   卒業歌靴箱に靴しづかなり        辻内 京子(1959年~)


  遠くから卒業の歌が聞こえてきます。目の前にあるのは学生たちではなく、その靴

 です。箱の中に収まっていますが、いつも以上に静まり返っているように感じます。普

 段は雑に入れられた靴たちも、今日は神妙にそろえられている、という景色かもしれ

 ませんし、体育館に全校生徒が集められていますので、教室のさざめきや廊下から

 音も途絶え、靴に届く静けさが際立っているという情景かもしれません。別の角度か

 ら卒業式をのぞいた句です。             句集『遠い眺め』より。



 №72   掃除機を動かすまでの春うれひ     津高 里永子(1956年~)


  秋は漢字だと「春愁」。春に感じる物憂さを指します。暖かくなり身も心も活動的に

 なってくる春ですが、気持ちが落ち着かず理由もなくふさぎ込んでしまうのも春です。

 秋には「秋思」がありますから、古来より季節の変わり目に人の心は不安定になるの

 でしょう。しかし鬱々(うつうつ)とした気分も、少し体を動かしてみればずいぶん違い

 ます。逆の言い方をすれば、気分が暗いときは体が動いていないもの。掃除機をか

 けるのは一番効果的かもしれません。        句集『寸法直し』より。



 №71   人を恋ふたび芽柳の濃くなりぬ      藤本 美和子(1950年~)


  早春に葉の芽の出始めた柳の枝です。冬の間は茶色で堅く引き締まっていますが、

 少しずつ暖かくなると枝先の芽に成長が訪れます。芽の色は種類によって違います

 が、やがては緑色の小さな葉の芽吹きとなるのです。句では日に日に変わる芽の色

 が、人を恋うたびに濃くなるといいます。恋うは恋愛も、寂しさに人恋しく思う気持ちも

 含まれるでしょう。まだ浅い春に人を思い慕うのは、柳でしょうか、作者でしょうか。ど

 ちらでもすてきだと思います。               句集『冬泉』より。



 №70   春の雪つまづくけれど転ばない      木田 智美(1993年~)


  
どの季節にもあるけれど、虹が一番映えるのは夏。雲と空がはっきりと主張する中

 に堂々とかかります。ではそれ以外はというと、やはり他の季節とは違うもの。春の虹

 は言葉からも淡い色合いが感じられますね。虹は希望の象徴でもありますが、春はさ

 さやかな願いや小さな望みが膨らみ、芽吹いていくエネルギーがある気がします。ちょ

 っとつまづいたけれど、転ばない。ふとしたラッキーと次の一歩の力強さが句から感じ

 られます。               句集『パーティは明日にして』より。




  ≪二月≫


 №69   べた凪の毛布に音もなく潜る      彌榮 浩樹(1965年~)


  暦の上ではもう春ですが、近頃は寒さが戻り、すっかり冬の様相です。そこで季節を

 少し戻って冬の一句。毛布は寒くなって押し入れから出してくる方も、年中敷いている

 方もいるかもしれませんが、もこもこの毛布が一番恋しくなるのはまちがいなく冬、歳

 時記においても冬の言葉となっています。風の吹かない凪(なぎ)の水面のように、整

 然と毛布が敷かれています。そこにするりと入り込む様子は、寒い部屋の空気から逃

 れて暖まる至福のひとときです。               句集『鶏』より。



 №68   硝子重ねてゆけば二月の空の色   佐藤 弘子(1944年~)


  ガラスの器を洗い片付けながら、丁寧に重ねていく様子を思い浮かべました。光を

 通す透明な色が、器の厚さや模様によってだんだんと重さを持ち、灰色がかっていき

 ます。2月の空の方はどうでしょうか。まだ残る雪空の色、晴れていてもどこか寂しそ

 うな薄い青い色をしています。それは確かにガラスを重ねていったときのような色合い

 です。比喩により、ガラスの持つ危うさや割れそうな質感が、美しさとともに空に投影さ

 れています。                         句集『磁場』より。



 №67   もう何かにしがみついたる春の蠅   対馬 康子(1953年~)


  春になり暖かくなれば虫たちが動き始めます。新たに土から生まれるものもありま

 すが、春の蠅(はえ)の場合は越冬したものもあるでしょう。しかし、久しぶりの世間に

 戸惑っているのか、すぐに止まって一息ついています。エンジンをかけたばかりという

 か、まだエネルギー不十分という感じです。といってもそれは私たちも同じようなもの

 で、冬の寒さに縮こまった体がなかなかついていきません。虫も私たちも、だんだんと

 活動的な季節に向かっていきます。             句集『竟鳴』より。



 №66   目をあけて眠れる鯉や牡丹雪    斉藤 美規(1923~2021年)

  じっと動かずに、池の暗がりにいる鯉(こい)。魚にはまぶたがないので、眠っている

 こともあります。目が開いているので、水の中も、もしかして水の上も見えているかも

 しれませんが、夢うつつの魚にはおそらく知覚されていないでしょう。春のふわりとし

 た雪が降っていますが、積もることなく一瞬で解けていきます。眠る魚の見る幻と、水

 面に触れては解ける牡丹(ぼたん)雪が、世界の中で静かに交錯していきます。

           雪の句ばかりを集めた句集『六花集』より (初出は『白壽』)。



 №65   如月や身を切る風に身を切らせ   鈴木 真砂女(1906~2003年)


  春といってもまだ肌寒く、冷たい風が吹きつけてきます。春の季語の中には、春一番

 や東風(こち)などたくさんの風の名前があり、句の想像の広がりを助けてくれます

 が、この句にあるのは無名の風です。風がただの風であることが、なおさら痛みを鋭

 くしているように思います。普通は傷つくと思えば自分をかばったり、守ったりするもの。

 しかしこの句では痛みを甘んじて受け止めています。それは自虐なのでしょうか、それ

 とも強さなのでしょうか。                  句集『紫木蓮』より。


 №64   終点は銀河それとも春の駅         坊城 俊樹(1957年~)


  作者が乗っているのは電車かバスでしょうか。終点は銀河だろうかという、ロマンチ

 ックな問い掛けがあります。現実にありそうなのは春の駅のほうですが、どんな駅か

 は私たちの想像次第です。最後に季節が提示されるので、頭に戻ると作者の乗り心

 地が変わってきますね。春の陽気にゆらゆらと揺れながら、夢うつつで過ごしている

 ようです。最初と2回目とで読後感が変わることはどんな文芸でもありますが、俳句は

 短いので読み直すことも簡単です。             句集『壱』より。



 №63   完璧な霞が原子炉を囲む         山崎 十生(1947年~)

  秋は霧、春は霞(かすみ)、春の夜は朧(おぼろ)、あたりに立ち込める微小な水の

 粒は、季節で呼び名が変わります。霞には明るい印象がありますが、それによって原

 子炉がもっと恐ろしいものに感じられます。完璧という形容も霞には似合いません。実

 際、完璧なものは現実にはなく、あるのは人々の幻想の中だけです。すべてを覆うの

 に、不確かな水のベール。その中の原子炉では、一体何が起こっているのでしょうか。

 ふぞろいなリズムも緊迫感を演出しています。   句集『未知の国』より。



 №62   冬空やとことん話し合つたのに      甲斐 のぞみ(1973年~)

  
意見の合わない誰かと、納得のいくまで言葉を交わしました。しかし句は「のに」と

 いう釈然としない言葉で終わっています。冬空は、話し合い後の空でも、すっかり場

 面を変えてもいいでしょう。冬だと雪が降る曇り空を想像しますが、太平洋側では晴

 れた青空が広がることも多いようです。決裂してしまった状況を思い悩んでいる空な

 のか、しょうがないなと気持ちを切り替えた青空なのか。それは受け取った読者が選

 んでいいと思います。                 句集『絵本の山』より。




  ≪一月≫


 №61   山墓の雪は汚さず夕日去る       木附沢 麦青(1936年~)


  深い山の中に残された墓石を想像しました。冬には雪が積もり、なおさら山への立

 ち入りが難しくなります。お墓の周りも、まっさらな雪に厚く覆われていることでしょう。

 夕暮れの赤い光は、西の空から斜めに照りかかり、町や野の凹凸に影を落とします。

 しかし、人の踏み込まぬ雪山では、降り積もった雪の表面をなでてゆくのみです。そ

 こでは代々の先祖が静かに眠っています。見ているのは作者なのか、夕日なのか、

 視点も神秘的な一句です。                  句集『母郷』より。



 №60   日透きとほりゐるさびしさや葛湯吹く   仙田 洋子(1962年~)


  熱い葛(くず)湯をふうふう吹きながら飲んでいます。白い葛粉にお湯を注ぎ、くるく

 る溶いていると透明になっていきますが、それを「さびしさ」と言ったことは一つの発

 見です。例えば雑味があったり、ノイズが入ったりするのは人間臭さのようなもので

 す。透明で物事が見通せることは、少しつまらないかもしれません。しかし、通り抜け

 ていったものの中には、葛湯のように栄養となって身に残るものもあります。それは体

 と心を温めるものでしょう。                 句集『子の翼』より。



 №59   風花に真昼のしじま深まりぬ        三村 純也(1953年~)


  雪の降る日はどんよりとした曇り空が多いですが、気持ちよく晴れた日にも小さな

 雪片が舞っていることがあります。「風花」とはその雪のことです。地域によっては言

 葉が変わることもありますが、ふわりと飛ぶ花びらのような雪には、なんとも趣があり

 ます。真昼という一番活気のありそうな時間帯ですが、人も少ないのか辺りには静寂

 が漂っています。その静けさが、雲もないのに青空から降りてくる不思議な雪に、さら

 に深まっていくのです。                     句集『一』より。



 №58   片足を雪に沈めて道譲る         小林 輝子(1934年~)


  雪深い地域の方は、当たり前のことと思われるかもしれません。しかし、限られた

 地域の実感ではないでしょうか。除雪が追い付かないほどに積もってくると、ことに

 歩道では、人々の歩いたところが獣道のように細く踏み固められます。それは1人が

 やっと通れる幅で、両側は柔らかな雪。すれ違うときは、片足をずぶずぶと雪に入れ

 て、通る場所を確保しなければなりません。その沈み込んだ足の感触や極寒の中の

 ちょっとした交流が想像できます。            句集『狐火』より。



 №57   ゴリラごろ寝春待つでなく拗ねるでなく   西村 和子(1948年~)


  楽しい六音のリズムから句が始まります。春が待ち遠しくなるのは冬の終わり。晩

 冬の動物園でしょうか、柵の中ではゴリラが寝転んでいます。人間であるわれわれ

 は、厳しい冬に耐えかねて雪解けの春が恋しくなりますし、ケンカして拗(す)ねてふて

 寝することもあるでしょう。しかし、ゴリラはそのどちらでもありません。動物としてある

 がままに生きているだけとも、想像もつかない深い思慮や諦めを持って、檻(おり)の

 中で達観しているようにも思います。          句集『心音』より。



 №56   みづうみのくろがね色の淑気かな      山本 洋子(1934年~)


  年が明けると、人の世だけではなく、山や海、天空の隅々にまで、新しい年を寿(こ

 とほ)ぐ気配に満ちています。古来よりこの気を淑気(しゅくき)といい、俳句の中でも、

 さまざまなものに対して詠まれてきました。旧暦では春の初めですが、新暦では冬の

 真っただ中です。この句では湖にある淑気を詠んでいますが、それは重く、暗い色をし

 ているといいます。年の始めの改まった様子が、冬の曇り空の下に広がる荘厳な湖

 からも感じられたのでしょう。              句集『寒紅梅』より。



 №55   今日生きる顔を洗ひて寒の水        杉山 加織(1978年~)

  今年の寒の入りは1月5日だそうで、ここから節分までは一年で最も寒さの厳しい

 期間です。寒の内の水はことさら冷たく澄みきり、古来より体に良いとされてきまし

 た。昔は井戸や川の水ですが、今は水道から出るのがほとんどです。しかし、キリリと

 した冷たさは変わりません。三が日が明け、朝一番の洗顔の水の温度に気合が入り

 ます。鏡に写る顔は見慣れた自分の顔ですが、今日という日を生ききる、活力に満ち

 た私の顔です。                  句集『ゼロ・ポイント』より。




 №54   骨肉を離れて静か熊の皮          渡辺 誠一郎(1950年~)

  
は古くより猟の対象となり、大切に扱われてきました。肉は冬の貴重な栄養源と

 して、骨や内蔵は薬の原料などに、皮は敷物や防寒にと、余すところなく使われまし

 た。東北で有名な狩猟の民、マタギの間では、熊を仕留めたあとに「ケボカイ」という

 解体の神事が行われ、獲物の鎮魂や山の神への深い感謝を表したそうです。頭や

 手足の痕跡を残す毛皮には、まだ魂が染み付いている気がしますが、それは荒ぶる

 ことなく静かに時を見つめています。           句集『赫赫』より。





  ≪十二月≫


 №53   今年また山河凍るを誰も防がず   細谷 源二(1906~1970年)


  北の最果てにまた冬がやってきました。この句は作者が開拓団に加わり、北海道で

 詠んだものです。およそ開墾に向かぬ湿地帯で、飢えと寒さのなか家族と生きてゆか

 ねばなりません。山河という大きな規模で、雪が降り、氷が侵食し、凍てついていきま

 す。それは大自然の力であり、人はおろか、動物も、神でさえも止めることはできませ

 ん。それでも誰か防ぐものはいないのかという悲痛な叫びと、誰もできないのだという

 深い落胆があります。               句集『飯食の火』より。



 №52   種子といふ眠りを冬の長さとも      中原 道夫(1951年~)


  秋になる実のその中の種は、土に埋もれて冬を越します。時期が来ればその暖かさ

 で芽吹き、春の到来を教えます。「冬」という期間は、暦の上では日付があり、人々の

 中でも大体1月くらいまでは寒いよね、なんて決まっているかもしれません。しかし自然

 界にはそんな言葉はありません。種の形になってからの長い眠りを目覚めさせるのは、

 気温や気候の変化です。その眠りの期間を見て、また人間が「冬」という季節を認識し

 ていくのでしょう。                   句集『一夜劇』より。



 №51   日向ぼこばかりしてゐること苦手    小池 康生(1956年~)


  日向ぼこは、冬の日差しへじっと動かずにいること。暖かさを感じながら、庭の景色

 を楽しんだり、のんびりと本を読んだり、ゆったりとした時間が流れていきます。ところ

 が作者はそればっかりするのは苦手と言っています。ぱたぱたと動き回って、じっとし

 ていられない人、なにもしないでいるとウズウズしてくる人も中にはいますね。私はそ

 のタイプです。日常を切り取って、そうそう私も、と共感しながら読むのも俳句の楽しみ

 方の一つです。                     句集『奎星』より。



 №50   東京の翳を濃くして六花(むつのはな)      吉野 秀彦(1959年~)


  雪の結晶は、六角形にその姿を成長させます。「六花」は雪の別称です。雪のより美

 しい名を選んでいますが、描かれるのは暗い東京の様子です。「翳(かげ)」に「かざす」

 という意味があるため、何かに覆われて暗くなったことが強調されます。北国ではむし

 ろ積雪の明るさを見ることが多いですが、東京ではすぐに解けてしまう雪が、建物や人

 工物とせめぎあっているような気がします。街全体の薄暗さとともに、人々の心にかか

 る翳も読み取れるでしょう。               句集『音』より。



 №49   油断せしところより滝凍てにけり     衣川 次郎(1946年~)


  北国の感覚だと思った一句です。水が流れ落ちるまま凍りついた滝の姿は荘厳です。

 凍滝を思い浮かべれば、その美しさや力強さを記したくなりますが、この句では、油断

 という気の緩みを滝の中に見ています。水がこんこんと流れて入れ替わり、よどみなく

 移り変わるのが滝の本来。気を抜けば凍るということを描けるのは、寒さが美しさでは

 なく、厳しさであり、油断なく身構えていなければならない北国こその感覚を言い当てて

 いる気がします。                   句集『青岬』より。



 №48   途中から大白鳥となる時間        石母田 星人(1955年~)


  観念的な句です。抽象的な考えや意識を表現しており、手につかめるような実体を

 持ちません。時間を触れる形で説明することは難しいですね。観念的な「時間」という

 意識が、途中から大白鳥になったと読んでいます。冬の使者である鳥の真っ白な姿、

 2メートルを超える両翼、天をつくような透明な声。「時間」にある緊張感と白鳥には親

 和性がある気がします。時間は飛び去ったのかも、静かに鳥の姿で私を見つめてい

 るのかもしれません。              句集『膝蓋腱反射』より。



 №47   音楽のあらざる部屋の寒さかな      中村 正幸(1943年~)


  雪の降る外の寒さ、暖房の消えた部屋の寒さ、いろんな状況がありますが、これは

 音楽がない部屋の寒さです。人の心を温める音楽は、最も原始的な娯楽の一つ。自

 分の好きな曲も、テレビからなんとなく聞こえる歌でも、ひえびえとした空間や私たち

 を和ませます。この句の寒さは、虚(むな)しさや寂しさの比喩になっていますが、俳

 句は実際の冷たさも肌に浮かべながら鑑賞するもの。比喩と現実が重なったときに、

 言葉の力が最も強くなるように思います。       句集『絶海』より。



 №46   ストーブにかざす十指を開ききる     金子 敦(1959年~)


  寒さが一段と厳しくなってきました。そろそろ暖房器具の恋しくなる季節です。寒風吹

 きすさぶ外から帰ってきたなら、まずは手洗い、うがい、そして急いでストーブの前に陣

 取ります。十指は両手の指の数です。「開く」だけならただの説明になってしまいますが、

 「開ききる」とすることで、私の意識が見え、指の先までぴんと力が入っていることがわ

 かります。指先から腕、体へとストーブの熱が伝わり、かじかんだ体がほぐれていきま

 す。                            句集『シーグラス』より。



 №45   影を捨て冬夕焼へ鳥たちは       太田 うさぎ(1963年~)


  
影を捨てるとはどんな状況でしょうか。光に照らされていれば必ず影はつきまとい、

 私たちから離れることはありません。影がなくなるのは、闇の中にいるときか、句の

 ように大きな光に向かっていくときです。鳥の群れが夕日へと飛んでいきます。余す

 ところなく照らされる様子は、実に立体的な描写です。冬の夕焼けはほかの季節より

 時間が早く、すぐに暮れてしまいます。寒さのなか赤々と西の空が染まり、鳥たちは

 そこへ帰っていきます。                 句集『また明日』より。




  ≪十一月≫


 №44   道が野にひらけて兎いま光    神野 紗希(1983年~)


  少し説明が難しい、感覚的な句です。まっすぐに続く道は、両側が建物や街路樹で立

 て込んでいる想像をしました。進んでいくとぽっかりと広い野原に出て、遠くに兎(うさ

 ぎ)が一匹たたずんでいます。兎は冬の光に輝いて、まるで光そのものになったかのよ

 うに描かれています。道がひらけるということは、今までの苦労と成功の比喩のように

 も受け取れます。そこで光になっている兎は、この道を歩いてきた少し未来の自分自身

 のようにも思うのです。                句集『すみれそよぐ』より。



 №43   兎掌に柿のせ故郷ある人は      浅井 愼平(1937年~)


  映像の時系列としては、ひっくり返して読みました。故郷のある人は、掌(てのひら)に

 柿を乗せている。句の語順のほうが手と柿の映像がはっきり見えますね。また、文章の

 「。」にあたる、句の「切れ」がない作品です。余韻や、ここにある言葉以外の含みが残

 ります。故郷がない人は柿を乗せない、あるいは自分は乗せず思いをはせることはない、

 と私は受け取りました。柿にある郷愁の念と、そこから距離を置いた自分をかえりみる、

 叙情のある句です。                  句集『夜の雲』より。



 №42   兎抱く艱難辛苦先のこと      高柳 克弘(1980年~)


  兎(うさぎ)は保護色で、冬になると毛が白くなる種類もあります。ほわほわとした小さ

 な生き物を抱きしめていると、癒やされあたたかな気持ちになります。この句では、兎を

 抱く小さな子どもを想像することもできます。艱難(かんなん)辛苦、つまり人生の困難や

 苦しみはまだ先にあり、兎のように真っ白な未来が広がっていますが、それもまだ訪れ

 ず、純粋なぬくもりだけがその子を包んでいるのです。親からわが子への慈しみの目が

 向けられているように思います。           句集『寒林』より。



 №41   またひとつ星の見えくる湯ざめかな    日下野 由季(1977年~)


  「湯ざめ」は冬の季語です。私は知ったとき驚きました。お風呂のあとは体が熱を逃

 がそうとしますから、冷たい空気に当たると余計に冷えてしまいます。現代は夏の冷房

 下でも起こりますし、冬の室内は暖房が効いていて、季節感は分かりにくいかもしれま

 せん。しかしこの句のように星が見えていると、銭湯の帰りや、夜風にあたっているよう

 な状況が想像できますね。体は冷えつつありますが、星がひとつ、またひとつと冴(さ)え

 渡っていきます。                     句集『馥郁』より。



 №40   暮早し昼読む本と夜の本    柘植 史子(1952年~)


  12月中頃の冬至に向かって、日に日に暮れるのが早くなっていきます。昼と夜それ

 ぞれの本がある、これだけで選んだ傾向が分かる気がしますね。昼は明るく、夜は穏

 やかな本、もしくはミステリーもお似合いでしょうか。読書は一人の時間ですが、自然が

 与える感覚にも鋭くなるのかもしれません。一日本を読みながら、日差しが陰り移ろい

 ゆくのが好き、と言った友人がいました。ゆったりとしたうらましい時間だなあと思ったも

 のです。                          句集『雨の梯子』より。



 №39   二人とも指輪してない冬の旅    大木 雪香(1973年~)


  シチュエーションの想像が広がる一句です。どこに向かうのでしょうか。コートに身を包

 み、駅に降りたつ二人連れが見えます。指輪は結婚の象徴でもありますから、意味深な

 関係かもしれませんし、単に婚前の初々しい一場面かもしれません。といっても句には、

 男女とも、他人のこととも書いておりませんね。私であれば気心の知れた女二人旅、お

 互いおしゃれな指輪なんてしない、気楽な旅行かもしれません。それもすてきです。

                                句集『光の靴』より。



 №38   こなごなの落葉われともわれらとも    津高 里永子(1956年~)


  森の中のふかふかの落ち葉、石畳の上に舞う落ち葉。欠けのないものも、踏まれて

 ぱりぱりと割れるものもありますが、この句では粉々に崩れてしまいました。作者はそ

 の葉が自分のようにも思うし、さらに、自分たちのようにも思う、とうたっています。心が

 折れそうになる体験や大きな喪失感は誰のもとにも訪れますが、「われら」と書くことで、

 共有される悲しみが表現されています。その切なさもいつか心の滋養となるのでしょう

 か。                            句集『地球の日』より。



 №37   稲刈が終り大きな闇となる     伊藤 政美(1961年~)


  
それまで黄金の波をたたえていた田んぼは収穫の時期を迎え、ある日を境にぽっか

 りとした暗がりになります。残るのは、まだ湿り気を帯びる黒い地面と、乾燥させられる

 稲の束だけです。天日干しの方法は地方によってさまざまで、私の地元では「ほんにょ」

 で稲を干しますが、昨今はコンバインによって刈り取りと乾燥が一度に行われることも多

 いでしょう。一面に細かな稲わらが散るため、天日干しの場合よりも少し、闇が薄くなる

 気もします。                        句集『四郷村抄』より。




  ≪十月≫


 №36   爛々と虎の眼に降る落葉     富澤 赤黄男(1902~1962年)


  
虎が虚空を見つめています。獲物を狙っているのかも、休息をとっているのかもしれ

 ません。眼(まなこ)には降りしきる落ち葉が映ります。爛々(らんらん)という描写で虎

 の鋭い眼光や、色とりどりの葉がひらめく様子も見えるようです。俳句は短いため静止

 画や動作の一瞬を描くことを得意としていますが、この句では一枚の葉が落ちる瞬間も、

 いくつもの葉が落ちる時間も同時に読み取ることができます。ひとつの美しい時間が、

 この句の中で永遠に続いているのです。            句集『天の狼』より。



 №35   蝗来て小さき影生む義民の碑       阿部 菁女(1939年~)


  
何百年と前、領主の圧政や飢饉(ききん)に農民が立ち上がり、一揆や打ちこわしを起

 こした歴史がありました。主導者の多くは極刑に処せられ、墓石を建てることも禁じられ

 たそうですが、人々の生活と命のために戦った彼らを義民としてたたえ、各地に碑が建

 てられました。碑へ蝗(いなご)が親しげに飛んできます。生まれた影は日の光への小さ

 な抵抗とも読めるかもしれません。細かな記録や思いが消えても、今なお私たちに語り

 継がれるものがあるのです。                  句集『素足』より。



 №34   軍艦とおでんとにある喫水線       坪内 稔典(1944年~)


  
鍋や屋台の区切りの中にぷかぷか浮くおでん、一緒に並ぶのは軍艦です。存在する

 場所も印象も違いますが、二つには同じ喫水線があるといいます。喫水線とは船体が

 水面と接しているラインのこと。おでんに見いだせば食材のスケールが一気に大きくなり

 ます。戦争のための軍艦と日常をほっこり温めるおでん。二つはこの句で影響し合い距

 離を縮めていきます。それは皮肉とも静かに迫る戦の予感とも、読む人にとっては受け

 取れるでしょう。                     句集『ヤツとオレ』より。



 №33   友の子に友の匂ひや梨しやりり      野口 る理(1986年~)


  
学生からの付き合いでも、お互いに年月は流れ、友のもとには友に似た新しい命が誕

 生しています。その子に向ける親としての笑顔も、慈愛の深さも、友人の新しい面として

 私の目に映るでしょう。その新鮮さは、時に友人との距離に思えるかもしれません。しか

 し、子どもの特有の匂い、ミルクや日なたの土埃(ぼこり)の匂い、その中に友と同じ匂

 いがありました。しやりり、という梨をかじる音は、それをうれしく、すがすがしく感じ

 ているように思います。                句集『しやりり』より。



 №32   胡桃割る丸ごとの淋しさを割る      塩野 谷仁(1939年~)


  
「割る」という言葉が繰り返されています。このリフレインの力で「丸ごとの淋(さ

 び)しさ」は、胡桃(くるみ)を指していると受け取ることができます。小さな茶色い球体

 を見つめながら得た味わいを、詩的に表現したと捉えることもできるでしょう。しかし

 胡桃の中に発見した孤独は、やがて自分自身の心ともシンクロしていきます。ぱき

 んと割れた殻の中からは、渋みのある滋養にあふれた実が出てきます。私の殻が

 割れた時、そこで得られるものもあるはずです。

                               句集『私雨』より。



 №31   人減つて国滅ぶ日は蚯蚓も鳴く   小原 啄葉(1921年~2020年)



  
秋の涼しげな草むらでは虫の音が響いていますが、蚯蚓(みみず)の声はどれでしょう

 か。「蚯蚓鳴く」は季語ですが、実際に鳴くことはありません。古来のおとぎ話や説話から

 引き継がれた現実にはない言葉が、季語にはいくつかあります。さて、人口は如実に減

 少していますが、この今が最後の日へと結び付くことを私たちはなかなか認識できないで

 しょう。滅ぶことはまだ空想ですが、その中では、するはずのない蚯蚓の声が本当に聞

 こえているのです。                    句集『無辜の民』より。



 №30   長靴が茸山から戻りけり          宮本 佳世乃(1974年~)


  
茸(きのこ)狩りから帰ってきたんでしょ、と言われたらそれまで。ですが踏み込んで想

 像してみましょう。帰るのは人ですが、書かれているのは戻ってきた長靴だけです。きっ

 と靴には泥や苔(こけ)などの山の証しが付いていて、茸を探す道のりの険しさ、楽しさ

 を物語っています。戻った人からは道中の話を聞かされるかもしれませんし、籠いっぱ

 いの茸の下準備を手伝わされるかもしれません。食卓に並ぶおいしい料理の湯気まで

 が、この句の期待と楽しさです。             句集『三〇一号室』より。



 №29   煮崩れし南瓜の端を生家とも       成田 一子(1970年~)


  
文末に「思う」と入れると読み取りやすいでしょう。崩れていく南瓜(かぼちゃ)を見な

 がら、それを生まれた家とも感じているのです。実際に家に見えているわけではなく、印

 象を重ね合わせています。ではその重なり合う部分はどこでしょうか。南瓜の立体的な

 形、温かな家庭の味、しかしそこに崩れるという不穏なイメージがあります。円満な家庭

 というのも達成しがたい理想の一つです。しかしこの南瓜にも、それぞれの家の美味(お

 い)しさが確かにあります。               句集『トマトの花』より



 №28   月の夜の柱よ咲きたいならどうぞ     池田 澄子(1936年~)


  
夜に咲く花には夜顔や月下美人などがありますが、この句で開花したがるのは柱。私

 の想像だと、月光の注ぐ縁側のものがいいと思います。もちろん、加工され根を失った

 木が成長するはずはありませんし、花が咲くわけもありません。しかし、家を支え続ける

 柱に生きているような力を作者は感じたのでしょう。花を見たわけではありません。咲き

 そうな気配を感じ、促すように優しく見守っています。あなたの家にも咲きたがっている

 柱はありませんか?                     句集『空の庭』より。




  ≪九月≫


 №27   銀杏を拾ひ大きな影を出る       早野 和子1935年


  
ここに描かれていない小さな影があります。それは銀杏の実を拾おうとしてしゃがんだ自

 分自身の影です。今出てきた「大きな影」とは、言わずもがな銀杏の木のもの。小さな実を

 拾っていると、そこに集中して周りの景色は見えていません。拾い終わった晴れ晴れしさ

 が、木の影の大きさを見つけさせるのです。銀杏の実は私の影を出て、私は銀杏の木の

 影を出る。日差しの中を歩き出すと、ひと仕事終えたようなのびやかさも感じられます。

                                句集『種』より。



 №26   霧の夜のわが身に近く馬歩む     金子 兜太1919~2018年


  
霧のベールは街や人を覆い、その存在を神秘的なものにさせます。私のそばには馬がいま

 すが、私が馬を引いているのか、ただ寄り添い歩いているだけなのかは示されていません。

 目からの情報を遮断された中では、馬の筋肉の躍動や肌に感じる温かさ、自分よりもはるか

 に大きい生き物としての気配が浮き立ってきます。かつて馬は農耕や移動の手段として私た

 ちの生活に密着し、近しい存在としてありました。その息遣いが霧の中で迫ってきます。

                              句集『少年』より。



 №25   台風の過ぎて大空入れ替はる       山田 佳乃(1965年~)


  
ここ数日も台風が過ぎていきました。来る前はどんよりとした空模様ですし、通過中は強

 風と大雨で大変です。しかし過ぎた後はからっとした天気になりやすく、爽快な洗濯日和で

 す。台風が湿った空気を吸い込み、高気圧と交代していくからのようですが、それを大空と

 いう空間がまるごと交換されたかのように表現しています。台風一過の空の下に身を置い

 ていると、自分自身の心持ちまでもが明るく入れ替わったような気分になります。

                              句集『春の虹』より。



 №24   鵙の贄ここより大気乾きゆく       角谷 昌子(1954年~)


  
鵙(もず)は小型ながらも肉食の鳥です。捕まえた虫やカエルを木の枝に刺す「はやに

 え」という習性が知られています。冬の間の備蓄という説もあるようですが、食べずに干か

 らびて残されるものも多く、理由は解明されていないようです。干からびた小さな生き物を

 起点に、大気全体が乾いていく、それには当然想像も含まれますが、鵙の贄(にえ)に感

 じる乾きや見た目の残酷さが、冬に向けてだんだんと乾いていく空気感と呼応しているよ

 うです。

                              句集『地下水脈』より。



 №23   月光のまぶしき部屋に帰りきし       名取 里美(1961年~)


  
「 帰りきし 」とは「 帰ってきた 」という意味です。日中の仕事や用事を終えると、あ

 たりは真っ暗。部屋の中は出た時のままで、朝に開け放したカーテンから月の明るい

 光が差し込んでいます。見慣れた自分の部屋ですが、月光に照らし出されて涼しげな

 表情です。窓の外の夜と室内が同じ明るさになっていますので、街の明かりや夜空の

 星の光が、同じ空間にあるようにも感じます。このまま、しばらく電気をつけないでいる

 のもいいかもしれません。

                              句集『家族』より。



 №22   彗星にふるさとのあり芋の露       大河原 真青(1950年~)


  
秋になり冷え込むようになると大気中の水分が凝縮し、木や草の表面で露の雫(しずく)

 となります。芋の露と取り合わされるのは、宇宙をゆく彗星(すいせい)です。楕円(だえ

 ん)軌道を描き太陽系を周回するものが知られますが、その途方もない旅もどこかで生ま

 れて始まったのです。彗星の故郷は遠く何万光年先でしょうか、移動を続ける長い年月に

 も思いをはせています。一方、芋の葉があるのは私たちの故郷、露は儚(はかな)いもの

 の例えにも使われます。彗星の長い命と対照的です。 

                              句集『無音の火』より。



 №21   コスモスは尋常一様には揺れぬ      我妻 民雄(1942年~)


  
空き地や庭でたくさんのコスモスが気持ちよさそうに揺れています。同じ風に吹かれてい

 ますが、その揺れ方はさまざまです。大きく傾くもの、少し遅れて戻るもの、花の重さや茎

 の形で動き方は変わり、それぞれに別の美しさがあります。その姿が通常であり、世の常

 であることをこの句では指し示しています。考えてみれば同じ姿に作られ、一律の動きを

 求められるものは、みな人が関わっているものです。自然界に一様のものは何一つありま

 せん。

                              句集『現在』より。



 №20   秋山河われもはびこるもののうち      仲 寒蝉(1957年~)


  
秋山河は大きな風景です。赤、黄、常緑の入り交じる紅葉山、流れ出る河。写真に収ま

 らない、生き物の暮らしを内包するような広さがあります。はびこるとは草木などが伸び広

 がり、栄えていくという意味です。秋山河の豊かさの中に自分も存在し、同じように成長し

 満ちていくという新鮮な発見があります。一方で、はびこるという言葉には侵略などのマイ

 ナスの印象も感じます。自然に害なす人間の一人、という自覚も含まれているのかもしれ

 ません。

                              句集『海市郵便』より。



 №19   鰡飛んで一瞬恋になる揺らぎ     なつ はづき(1968年~)


  
鰡(ぼら)は出世魚として有名ですが、よく跳ねる魚としても知られます。そして、恋と

 気付く瞬間の気持ちの揺れ。鰡と恋心の二つが重なる時、似ている部分はどこでしょ

 う。勢いよく飛び出す感じ、一瞬身をよじり揺らぐ様子、そして今を生きる懸命な力。こ

 の揺らぎは、鰡に見つけたものか、恋をする自分の中にあったものか、分けて書かれ

 てはいません。それらは詩の力によって結び付けられ、題材がかけ離れるほど、クロー

 ズアップされ際立っていきます。

                            句集『ぴったりの箱』より。




   ≪八月≫



 №18   秋の暮左右の靴の音違ふ      村上髀彦(1979年~)


  
秋の夕暮を歩いていると、自分の靴の音が左右で違うことに気が付きました。靴底に小石が

 挟まったのかも、底がすり減り、素材の固い音がしているのかもしれません。秋は聴覚が鋭く

 なるのでしょうか。季語の一つに「秋声」という言葉があります。秋が声を出すわけではありま

 せん。虫の音や寂しい風の音、どこからともなく聞こえる落ち葉の音、すべてを含んだ秋の気

 配を指します。その感覚は自分の発する靴音にも及んでいきます。

                                      句集『遅日の岸』より。



 №17   萩の記憶鮮明にして食ひ違ふ      小林 貴子(1959年~)


  
風に揺れながら垂れ下がる枝の、細やかな葉の間に、萩は小さな赤紫の花を咲かせます。

 萩の記憶とはいったいどんな記憶でしょうか。花の前で話をしたのかも、素敵な出会いがあっ

 たのかもしれません。その記憶は細部まで鮮やかに思い出すことができますが、相手側の記

 憶や事実とは何かがずれていました。矛盾した二つのことが、けれどどちらも正しいということ

 はままあります。その違和感が萩とともに言葉に縫い止められています。

                                      句集『北斗七星』より。



 №16   教室は波の明るさ鰯雲         今井 聖(1950年~)


  
波が放つ光は、ちらちらと移ろいゆくものです。ある部分は少し陰り、ある部分は透き通り、

 漂うようにその濃淡を変えていきます。無機質な教室の中の明るさは、そのように部分部分で

 変わるわけではありません。しかし作者の感性は、学生たちのさざめきや躍動をひらめくような

 光として捉えたのでしょう。実際にはない映像を私たちは受け取り、豊かにイメージすることが

 できます。空には大海を泳ぐような鰯(いわし)雲がたなびいています。

                                      句集『谷間の家具』より。



 №15   露まみれ鎖の切れしふらここも        中嶋 鬼谷(1939年~)


  
「ふらここ」はブランコの別名です。片方の鎖が切れて、座面がだらんと下がる様子が想像で

 きます。当然乗ることはできませんし、分厚い鎖をすぐに直すこともできません。危険なため立

 ち入り禁止のテープが貼られたかもしれません。いつも身近だった存在が、ふとしたきっかけ

 で触れられない存在へと変わってしまいます。壊れたブランコの表面はびっしりと秋の露に覆

 われています。そして辺りももの悲しいような露が一面に落ちているのです。

                                       句集『無著』より。



 №14   きのふより遠くを踏めば秋の風        南 うみを(1951年~)


  
秋がいつから始まるのか暦のうえでは決まっていますが、実際の変化はとても緩やかです。

 暑さの残る中、風の中に少しずつ涼しさを感じるようになってきました。「きのうより遠く」という

 のは、物理的距離かも、心理的距離かもしれません。なにかの記録を伸ばしたのでしょうか、

 昨日の自分と比べて成長したと感じたのでしょうか。いつもは気にしない小さな変化をふと捉え

 たとき、そこに爽やかな風が吹き渡っていくのを感じます。    句集『志楽』より。



 №13   頭の中の闇はそのまま髪洗う        出口 善子(1939年~)


  
汗をかきやすい夏は、さっぱりするためにシャワーを浴びたくなります。砂埃がつき、汗で蒸

 れた髪はなおさら洗い流したいですね。「髪洗う」という季語は、シャワーやユニットバスなどな

 い頃からの生活の言葉ですので、ニュアンスは現代とはずれつつありますが、爽やかさを求め

 る心は変わりません。目をつむり、髪を水で流しますが、その頭の中の闇が晴れることはあり

 ません。もやもやとした心とは裏腹に、素肌を清涼感が流れていきます。

                                         句集『羽化』より。



 №12   そのまはりかすかな水輪蟇        対中 いずみ(1956年~)


  
「その」という指示語で句が始まり、私たちはそれが何なのかわからないまま句を読み進めま

 す。気付かないほどの水の波がそれを中心に静かに広がっていき、最後にどっしりとした蟇

 (ひきがえる)が現れます。蟇は大柄な蛙で、姿もゴツゴツとして存在感がありますが、田んぼ

 や池の隅でじっとしているとなかなか気付かないものです。その静かな存在感が、ほのかな波

 の表現によって描かれています。蟇の不気味さと水の静かさが、魅力的に対比されています。

                                        句集『水瓶』より。



 №11   端居して一番遠い爪を切る         長峰 竹芳(1929年~)


  
夏も夕方になればいくぶん暑さがやわらぎます。少しの風でも、縁側や庭に出ると気持ちが

 いいですね。端居とは、家の端、つまり窓辺の近くや縁側で涼むことを指します。外から見える

 かもしれないけれど、端居の姿はのんびり家でくつろぐ姿。この句では爪を切っているようです

 が、一番遠い爪とは足の小指の爪でしょうか。あえてどの指と言わないことで、爪を切ろうと懸

 命にかがむ姿や自分の体の中の距離感が新鮮に読者に伝わります。

                                        句集『直線』より。



 №10   夕立の前のしづかさかと思ふ        杉田 菜穂(1980年~)


  
夏の暑さは、大きな積乱雲を生み出し、夕方の同じような時間に雨を降らせます。いつもなら

 そろそろ降るはずですが、まだ雨は降ってきていません。嵐の前の静けさというと慣用句的で

 すが、夕立の前の静かさは具体的な情景を想像できます。肌にまとわりつく湿気や、日の傾い

 た街の様子、なんとなく言葉の少なくなる人々。この静かな不思議な時間はいつまで続くのでし

 ょうか。やがて期待どおりの激しい雨がわれわれに降り注いできます。

                                        句集『夏帽子』より。




   ≪七月≫


 №9   歓声の聞こえる夜の冷蔵庫        上森 敦代(1958年~)


  冷たい飲み物や生ものの保存など、夏は冷蔵庫がより重宝されます。夕食の準備中や食事

 中はよく扉が開閉されますが、食後は静かにうなるばかり。そんな冷蔵庫に届く賑(にぎ)やか

 な声とは、居間の団欒(だんらん)やナイターなどのテレビの中の声でしょうか。同じ空間にあり

 ながら、楽しげな家族とは別の世界に、冷蔵庫はひっそり立っています。心を持たない冷蔵庫

 がそっと人間生活に聞き耳を立てているような、そんな不思議な感じが伝わってきます。

                                         句集『はじまり』より。



 №8   草笛のいつより濡れてゐし指か      安里 琉太(1994年~)


  草の葉を口につけ強く息を吹き当てると、ある角度、ある力加減で素朴な音が鳴り響きます。

 草笛はコツをつかめば音が出ますが、その加減を見つけるまでが少し大変です。この人も懸

 命に吹いていたのでしょう。いつからか指が湿っていました。唾液でしょうか、もしかしたら笛に

 していた葉自体の水分かもしれません。夢中になって遊び、ふと我に返る瞬間があります。そ

 れまでの自分は、草笛と一体であったようにしみじみ思うのです。  句集『式日』より。



 №7   夏帽が見え逞しき顔が見え       佐藤 海(1959年~)


  夏帽はつばの広い麦藁(むぎわら)でしょう。まず帽子、次に日焼けした逞(たくま)しい顔見え

 ます。白い歯も覗(のぞ)いたかもしれません。炎天下の作業中でしょうか、きっとこちらの声掛

 けに振り向いたのでしょう。帽子と顔、それだけ見えたとしか語られていませんが、動画のワン

 シーンのように映像を思い浮かべることができます。最後の「見え」に続くのは何でしょうか。夏

 帽の人の声でしょうか。背後の夏山でしょうか。それはあなたが決めていいのです。

                                         句集『瞳の色』より。



 №6   前任の残してゆきし蝿叩き      西山 ゆりこ(1977年~)


  部署異動があったのでしょう。引き継いだ机や書類の他に、前任者は蝿叩(はえたた)きまで

 残していったのです。私物か備品かも微妙なところですし、衛生面がちょっぴり気になりますが

 アットホームな職場の雰囲気がにじみ出ています。日常の小さな出合いがユーモラスに切り取

 られた一句です。蝿の最も活発な季節は夏、蝿叩きもこれから活躍します。引き継いだ蝿叩き

 を振るいながら、日々の仕事もしっかりとこなしていくのでしょう。

                                  句集『ゴールデンウィーク』より。



 №5   飼へぬかもしれぬ金魚を掬ひけり     鶴岡 加苗(1974年~)


  金魚掬(すく)いの屋台には、1畳ほどの小さなプールが置かれ、小さな金魚があちらこちら

 へ泳いでいます。その中の1匹をなんとか掬うことができましたが、帰る家には金魚鉢も水槽も

 なく、家族が飼うことを承諾してくれるかも分かりません。はたして私は、この命に責任を持って

 向き合えるのでしょうか。そんなためらいが感じられます。楽しい夏祭りでの小さな背徳感とも

 言えるでしょう。切れ字「けり」にその微妙な気持ちが託されています。

                                        句集『青鳥』より。



 №4
   耳飾り花火は遠くまたたけり       細谷 喨々(1948年~)


  耳飾りという映像がまず飛び込んできます。その後には遠くで開いて散る花火。その遠近感

 を楽しむ一句です。近くの花火大会にやってきたのでしょうか。耳飾りは一緒に来た人かも、た

 またま隣り合った人かもしれません。花火へ向ける目線の途中に、大きく揺れる耳飾りがあり

 ます。それは息が触れるほど近くの美しさであり、その対比もあって夜空の花火がより遠く美し

 く感じられます。大きく広がる夏の夜空、あなたのそばには誰がいますか。

                                          句集『二日』より。



 №3   夏芝の針の光や休館日         津川 絵理子(1968年~)


  休館日は博物館や美術館でしょうか。敷地に併設された芝生では来館者がのんびりと憩い

 ます。しかし、芝生も本日はお休み。立ち入りもできず、遠巻きに見るだけかもしれません。そ

 の芝の葉先は針のようで、陽(ひ)を受けて光り輝いています。芝は人のために整備され、よく

 よく鑑賞されることもありません。しかし、いつもと違った人間のいない環境で踏まれることのな

 い夏芝がぎらぎらと光っているのです。それは夏芝の生命感でしょう。

                                        句集『夜の水平線』より。



 №2   ふと言ひよどむ空蝉の数へ方     河内 静魚(1950年~)


  夜中ひそやかに羽化を済ませた蝉(せみ)は、太陽の下に精緻な抜け殻を残していきます。

 場所によっては、木々に鳴く声に合わせて無数の蝉の殻が周りにあることに気付きます。さて

 あなたはそれをなんと数えるでしょうか。もはや生きていない物体として1個と数えるのか、生

 き物として1匹と数えるのか。中身なく動かない殻なのに、まだ生きているように感じる、その

 かすかなおののき。それが作者を言いよどませたのではないでしょうか。

                                         句集『夏風』より。



 №1   山脈の一か所蹴つて夏の川     正木 ゆう子(1952年~)


  緑の山々は連なり、青空を背景にして、くっきりとした稜線(りょうせん)を浮かび上がらせて

 います。そのでこぼことした1カ所が崩れたように大きくへこみ、そこから勢いよく夏の川が流

 れていきます。山からほとばしる川は、勢いを持った澄んだ流れを想像させて爽快です。山を

 蹴破って川になった、湖ができたという神話は日本各地に見られます。遠景でありながら、夏

 の鮮烈な生命感を感じさせる一句です。               句集『静かな水』より。