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 小熊座・月刊 
 


   鬼房の秀作を読む (121)      2020.vol.36 no.425



         澱みなすこの世さながら梅雨深む     鬼房

                                   『幻 夢』(平成十六年刊)


  「泥と、水底で朽ちた木の葉の灰汁をふくんで粘土色にふくらんだ水が、気のつかぬくら

 いしずかにうごいている」。金子光晴の「マレー蘭印紀行」の冒頭である。鬼房もまた澱ん

 だ水面を見つめている。そして、この世さながら、という措辞から、貧困や戦争、病気、自

 然災害に思いを抱いているだろう。川は時の流れとして、鴨長明の『方丈記』の冒頭が浮

 かぶが、鬼房の眼前の水面は今、澱んでいる。時が停滞しているのだ。鬼房は太平洋戦

 争のとき朝鮮や中国を転戦した。生涯、病と戦った。水底の泥や朽ちた木の葉は、記憶の

 欠片とも見える。それは表現される機が熟した自身の記憶と、外の世界が呼応する瞬間

 である。季節は梅雨。鬼房が一生を通して生きた東北のこの季節は、しばしば北方のオホ

 ーツク海高気圧が張り出し、北高南低型の気圧配置になる。それが冷たく湿った北東風を

 運んでくる。「やませ」といい、人々から怖れられる風である。やませは「病ませ」とも書き、

 昔は「飢餓風」と呼ばれ冷害をもたらした。梅雨の後半に多いこの風のことも鬼房の脳裏

 にあるだろう。眼前の澱みは「やませ」で流されるか。または新たな澱みを生むか。時はこ

 の世に関わらず、しなやかに来て、過ぎてゆく。

    やませ来るいたちのやうにしなやかに        鬼房

                                     (有住 洋子「白い部屋」)



  鬼房の眼に映っていた「澱みなすこの世」は今なお澱み続けている。歌人小澤正邦は、

 明治四十三年に書かれた石川啄木の「時代閉塞の現状」から「啄木は、社会思想とは

 別のところで、(明治の)強権と自分のはるかなる距離を語っている。これは現代にも一脈

 通ずる、時代閉塞の状況に共通な疎隔を感ずる心象である(「も」「かも」の歌の試行)」と

 啄木の短歌には社会には個人が無力であることを承知のうえでする詠嘆があり、その詠

 嘆は近代的感傷に近似しているという。

  梅雨が深まることを人智では止められないのと同じように、人類の叡智をもってしても理

 想社会への道のりは困難であることを鬼房はすでに知っていて、なお言葉を表出する。そ

 れは批判的視座というより、啄木の、近代の、さらには現代に通じる感傷である。反骨の

 精神が貫く鬼房の作品が、現代社会に窒息しそうな私たちをか弱きものとして突き放すこ

 となく、むしろ精神を安らかに広げさせてくれるのは、鬼房が感傷を弱きものとして退けず

 胸に深く保ち続けたからであろう。〈おろかゆゑおのれを愛す桐の花〉〈然るべき荒野はな

 きかわが端午〉などにも同根の心象がある。

  翻って私たちは、高度経済成長のもたらした奢りか、今や感傷の眼は閉ざされ、澱み続

 けるこの世を直視しようともしていないことに気づかされる。

                                             (小田島 渚)