小 熊 座 2020/10   №425 小熊座の好句
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    2020/10   №425 小熊座の好句  高野ムツオ


    蜘蛛の糸絡むこの世の捨てがたし        鯉沼 桂子

  蜘蛛の糸は絹のような細さでありながらも防弾チョッキの強さと鋼の弾力性とを兼

 ね備えていることはよく知られている。さらに、うっかり手や髪などに着いたときの始

 末に負えない粘着性。ネットで検索して知ったことだが、蜘蛛は目的に応じて糸を使

 い分けるのだそうだ。巣を張る際には粘着球が付いた糸を用い、それを張る足場に

 は、より強い糸を用いるという。獲物を巻き付ける時、ぶら下がる時なども同様だ。子

 供の頃、鬼蜘蛛を捕まえては、その尻から糸を出させて、小枝などに巻き付けて遊ん

 だ記憶があるが、大崎茂芳という研究者は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のカンダタにヒ

 ントを得て、十九万本の蜘蛛の糸を集めて、太さ四ミリ、一周約二十センチほどの輪

 を作ったのだそうだ。その糸で吊ったハンモックは体重六十五キロの氏が乗っても壊

 れない強度と弾力性を兼ね備えていたという。氏には『クモの糸の秘密』という著作も

 ある。

  そのような強靱巧緻な糸の巣に絡み獲られた蝶や蟬の命運は死しかないが、人間

 の世にも、同じような糸が無数に張られているというのが、この句である。しかも、そ

 れは現実の蜘蛛の巣同様、目に見えないから始末に終えない。だが、この句は、そ

 れを嘆いているわけではない。そういう世であってもなかなかいい、いや、むしろ、そ

 うした何が起きるかわからない世であるからこそ面白いと暗に主張しているのだ。新

 型ウイルス禍の不透明感を増す現在だからこそ、この風狂の開き直りはより魅力を

 増す。

    ひとりはさみしふたりもさみし金魚鉢        中鉢 陽子

  孤老族という言葉があるらしい。族は、もとは、特定の場所や傾向を示す集団を指

 す。例えば、暴走族や社用族など。孤老には自ら好んでそうなった人もいるだろうが

 多くは、やむを得ず強いられた境遇である。用語的には窓際族に近いか。それでも

 「族」という言葉には集団意識が感じられて、自ら名乗るなら、老狼や老犬の一団に

 加わったような気取りも混じる。この句の孤独意識は、もっと直裁である。一人も二人

 も寂しいと訴える。では、この孤独感は三人、あるいは四人なら解消されるのだろう

 か。たぶん、地球上の総人口が集合しても解消されないだろう。この世に一人生まれ

 出て以来の根源的な孤独だからである。そうした寂しさをかこう人間の悩みなど金魚

 鉢の中に幽閉された金魚に比べたらとるに足らないものかもしれない。

    老いしゆえピアノ聞こえる花野かな        山寺佐智子

  ピアノは楽器であると同時に、そこに生まれるもっとも弱い音を意味する。その音が

 聞こえ出すのも老いを自覚するようになってからである。奏でるのはむろん、花野に

 咲き乱れる萩や撫子、女郎花の寒さ間近の花々。

    人間の口おそろしき夏の闇             林   衿

  恐ろしい口と言えば「ジョーズ」の鮫の口を思い出すが、それ以上に恐ろしいのは人

 間の口だろう。昨今の新型コロナウイルス蔓延も、もとをただせば、この口の底知れ

 ずの食欲が元凶との説がもっぱらである。

    未来はかたち無きもの夏の暮           小笠原弘子

    無限大記号となりて蚯蚓の死            瀨古 篤丸

    外に月を待たせて人と会ひにけり         菅原はなめ






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