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   鬼房の秀作を読む (118)      2020.vol.36 no.422



         生きてあれば癈兵の霊梅雨びつしり    鬼房

                               『名もなき日夜』(昭和二十六年刊)


  第一句集 『 名もなき日夜 』 には 「 生きて 」 ではじまる句が二句ある。一句目は 「 濠

 北スンバワ島に於て敗戦 」 の前書のある 〈 生きて食ふ一粒の飯美しき 〉 で、二句目が

 「 昭和二十一年夏 名古屋に上陸復員 」 の前書の掲句。

 「 生きて 」 の背後には 「 死 」 がある。捕虜生活中に 「 一粒の飯 」 を凝視した日々から

 自身肺浸潤により病院船で帰国するまでの間に多くの戦友が死んだ。鬼房はその死者達

 と一緒に帰国したという思いにあった。「 びつしり 」 は日本特有の梅雨の雨粒であり、彼

 にまとわりつく無数の死者の霊であった。鬼房二十代、俳句に生死を刻み付けている。

  「 癈兵 」 とは傷病兵のこと。昭和六年に傷痍軍人と改称されたが鬼房はこちらを使う。

 戦後十数年経った私の幼少の頃にも、戦場で身体の一部を失い、白衣に杖をついた元兵

 士が物乞いをしており、子供ながらに複雑な思いを抱いた。鬼房の 「 生きてあれば 」 に

 は生き残ったとしても癈兵としての苦しみが待つとの屈折した思いもこもる。

  戦争を体験した俳人達が復員時の句を書いているが、癈兵を記したのは鬼房だけでは

 ないか。この様な視座こそが彼の人間性であり、六林男の言う 「 かなしい人間 」 という想

 いを強くする。コロナ禍で多くの人が理不尽な苦しみの中にいる今、この句の精神はそれ

 らの無数の他者の苦しみかなしみを背負う 「 梅雨びつしり 」 であると感じられる。

                                  ( 永瀬 十悟 「桔槹」 「群青」 )



  戦争を知らない私は、廢兵とは、傷痍軍人を思い出す。駅に立ち、列車の中を喜捨を求

 めて歩いていた白づくめの傷ついた帰還兵。時には偽者もいたが遭遇すると日常が歪む

 気がしたものだった。

  梅雨の雨に濡れた背に 「 びつしり 」 とつきまとうように、鬼房はその霊を思い出す。こ

 の思いこそが鬼房俳句の原点であろう。戦争体験は大声ではなく、ひっそりと梅雨に濡れ

 そぼるごとくに己れの過去に向き合うのだ。生き残った者の後ろめたさとあきらめ。答えは

 なく、戦争とはかくなる無惨。

  「 梅雨しとど 」 ではなく、「 梅雨びっしり 」 が現代の語彙感覚に続く。鬼房に一度も会っ

 たことがない若者がその俳句に引き込まれる所以だろう。

  揚句は、第二次大戦後に詠まれた句だが、世界はいまも戦争が続いている。しかも、

 2020年は世界大戦のごとく、いやそれ以上に全世界をを覆う感染症が猛威を振るってい

 る。 「 トリアージ 」 ( 命の選別 ) なる言葉も耳にする。

  しかし、人は無力とあきらめてはならない。このような状況の中で、俳句を詠むことは何

 の意味があるのかという問いにも向き合う。

  俳句は、人生の暇つぶしではない。いかに生きるかを問い続ける営みである。私にとっ

 て、2020年のコロナ禍は今一度自己に向きあう機会となるであろう。必ずやこの危機は

 乗り越えられると信じたい。鬼房の次の句を心に止めながら。

    宵闇のいかなるわれか歩みだす      鬼房

                                            ( 瀨古 篤丸 )