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 小熊座・月刊


   2020 VOL.36  NO.417   俳句時評



      なぜ 「天」 が 「病む」 のか
                 
――石牟礼道子忌に

                              武 良 竜 彦



    祈るべき天と思えど天の病む          「天」

  例えばこの石牟礼道子俳句に不思議な魅力を感じても、それが何故なのか説明できる

 人が何人いるだろう。

  大方の人が「公害」や「原発事故禍」の暗喩詠として受け止めているのではないか。公害

 告発作家という彼女に対するレッテルが、読解を妨げている典型的な例だろう。

  ならば、そう読んだ人に問おう。

  この天とは何か。

  何故、天に祈るのか。

  何故、天は病んでいるのか。

  こう問うただけで、おそらく返答に窮するはずだ。

  石牟礼道子や、伝統的に漁業を営んできた人たちの中には、自分を生かしている自然

 について、彼女の著作の数々から受け取ることのできる思想……というより感性、いや生

 き方というものがある。やや図式的になってしまう畏れがあるが、それは次のように解説で

 きるだろう。

  大地と海は命の生と死をまるごと抱き、その喜びと悲しみ故に美しく輝く場所であり、天

 は人間の切ない思いや祈りを抱きとめてくれる、彼岸的な心の奥処である。この句の「天」

 はそういう意味の「祈り」の奥処である。

  地上で人工的な地獄模様が発生し、命が危機に晒されているのを俯瞰して、病む筈のな

 い「天」が「病んで」いるのだ。水俣病だけを指しているような狭い表現ではない。

  近現代の文明様式の急変が、命に強いた激烈な生命の危機を、「天」が映し出して「病

 んで」いるという、大きな文明論的な視座の句なのである。自分たちの祈りを受け止めてく

 れる天でさえ病んでしまっている。私たちの切ない祈りの行き場すらない。そんな含意の

 表現である。

  東日本大震災後、多くの人が、石牟礼道子俳句に引き付けられた理由の一つがここに

 ある。加害者バッシング的な告発調とは無縁の、その眼差しの深さゆえである。

  わたしたちは、石牟礼道子文学の、命や自然と交感しているような感性を共有できない

 地点に、自分が立っていることに無自覚だったのだ。だからその中の一つである石牟礼道

 子俳句が「難解」に感じられてしまうのである。

  それが石牟礼文学の現代を描く方法論でもあると言ってもいいだろう。

  動植物と人間を含む自然に対する古来の感性で、すべてを描く。そのことによって、私た

 ちが自然だけではなく、その文化的感性まで喪失していることから生じる、近現代文明に

 よる命の普遍的な危機が表現可能となっているのではないか。象徴的な言葉を引く。

      ※

  ここはどこじゃろうか。天底( あまぞこ) じゃ。天底ちゅうは天の底じゃ。あの天と、

 まっすぐつながるところぞ。そうか、桜は天と地をつなぐしるしの樹じゃったか。


                            ( 『石牟礼道子全集』第十二巻「天湖」より)

      ※

  石牟礼道子俳句全集の「水村紀行」の章の俳句を理解するためには、もう一つ、「水」

 「川」 「湖」 に対する心性を知っておく必要がある。

  命の生と死をまるごと抱く「大地」から死が滲みだし、それを湛えているのが「湖」であり、

 それが悲しみのように海に流れ下っているのが「川」である。

  ちなみに「花」(=桜)は命そのものだ。

     ダムの底川盲( めし) いいてとろとろと     「水村紀行」

    花びらの湖面や空に何か満つ      

    湖底より仰ぐ神楽の袖ひらひら     

    水底に田の跡ありき蓮華草       

    湖に沈みし春やぼけの花        

    わが湖( うみ) の破魔鏡爆裂す劣化ウランとか 

    月影や水底はむかし祭りにて      

    童( わら) んべの神々うたう水の声   

    幾世経しかなしみぞ谷合いの古き湖( うみ)

    一本足連れてゆき来す湖( うみ) の底  

    月影や水底の墓みえざりき       

    わが生は川のごときか薄月夜
       

  湖と川の語が使われた句を拾い出してみた。

  深い水を湛え水平に広がる水面。生きているものは垂直に立ち働く。死ねば皆水平に横

 たわり土と水に還る。

  水平に広がり、心の底に深く降り積もるのが死の領域、それが 「川底」 であり 「湖」 であ

 る。だからそこに「墓」が幻視されているのだ。

  純真な童たちは生まれる前の、死と生が未分であったときの記憶を身体に抱えて持って

 いる。だから「水底」から響いてくるような「神々」の「うた」を唄うのだ。童たちにその言葉の

 意味を問うても、童には応えられない。その言葉は神の言葉だから、人間界の言葉のよう

 な「意味」に翻訳できないからだ。

  石牟礼道子の俳句もそんな言葉で、できている。

  私たちが喪失してしまっている、このような原初的心性、生きる姿勢の心的構造が把握

 されないと、石牟礼道子俳句は理解不可能である。

  彼女は原発事故禍が題材の俳句など詠む必要などなかったはずだ。

  文明禍という大きな視野の中の、命という存在の危機を、このような表現で詠んでいたの

 だから。

    さくらさくらわが不知火はひかり凪     「天」

 「ひかり」は天から命を照らすもの。

  その「ひかりの凪」。

  この句は「命舞うこの私の不知火(海)は、天から降り注ぐ光に包まれて凪いでいる」とい

 う含意の句であろう。

    死者たちの原に風車 からから から  「水村紀行」

  こんな不思議な韻律の俳句を他で読んだことがない。実景と解すれば墓域だが、石牟礼

 道子の心に常在する幻想空間でもあろう。

  無邪気さと哀感の併存する原始の響きだ。

  私たちが学ぶべきもう一つのことは、私たちが喪失しているこの句のような、口承文学的

 な韻律性でもあろう。

                      (「俳壇」2020年2月号掲載の拙論を一部抜粋転載)




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