小 熊 座 2018/5   №396 小熊座の好句
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    2018/5   №396 小熊座の好句  高野ムツオ



    雪の牛舎聴こえぬはずの咀嚼音        大河原政夫

  俳句の一句独立性はどこにあるか。これは俳句形式が固有の詩形式と認知されて

 以後、繰り返し論じられてきた課題である。俳句がもともと短歌の上五を切り離した

 断片であるという原点に戻れば、独立性がないところにこそ固有性を求める必要が

 あるという説はかなりの説得力がでる。昔の桑原武夫の第二芸術論もそこに端を発

 した。正岡子規の〈をととひのへちまの水も取らざりき〉という絶唱が同時発表の〈糸

 瓜咲て痰のつまりし仏かな〉〈痰一斗糸瓜の水も間にあはず〉の二句と並び、さらに新

 聞「日本」に掲載された「是れ子が永眠の十二時間前即ち十八日の午前十一時病牀

 に仰臥しつゝ痩せに痩せたる手に依りて書かれたる最後の俳句なり」との前書が付く

 ことによって、その背景に普遍性が生じたのは指摘するまでもない。糸瓜の句は、そ

 うした当時の状況を抜きにして鑑賞することは不可能に近いかもしれない。

  掲句の初見は福島の翅の会であったから、放射能による避難指示区域の空っぽ

 の牛舎を詠った句とは想像がつく。だが、そうした状況の前提なしに空っぽの牛舎と

 しての鑑賞は可能だろうか。迷ったが、あとで愚問だったと気がついた。「聞こえぬ」

 ではなく「聴こえぬ」の表記に注視できれば、疑う必要がなかったのである。音が聞こ

 えるかもしれないと集中している姿勢が、この表現を生んだのだ。牛が静かに春を待

 っている小屋なら、こうした表現は生まれなかったにちがいない。

  子規の〈をととひのへちまの水も取らざりき〉も、この表現がもたらす断念の深さに

 気づくなら、一句だけでも己が生への決別の思いが籠められていると読み取れるの

 である。鑑賞力がまだまだ浅薄と、改めて知らされた。

    千呼万喚秩父に満ちぬ毛蚕の声        後藤 悠平

  金子兜太追悼の句だろうが、それにこだわることはない。秩父という風土そのもの

 へのオマージュでもある。「千呼万喚」は白居易「琵琶行」に拠る。何度も大きな声で

 呼びかけることをいう。

    魂まで呑み込めぬ海初蝶来           大久保和子

  そういう点では、掲句の方が迷わなくて済む。七年前の大津波を前提にしている。

 もっとも人命が海に奪われた歴史ははるかに古くて長い。悲劇は数え切れないほど

 あった。そのどんな場面でも鑑賞できようから、そうした点では前句と同じかもしれな

 い。だが、追悼の魂鎮めのみではない。肉体を奪うことは可能でも、魂は奪い去るこ

 とはできない、死者の魂は今も我々の傍らにあり続けるとの勁く熱い意志の裏付け

 が感じられる。その意志が巫女のように海の彼方から初蝶を招き寄せたのである。

    花影が蛍光灯にのびている           千倉 由穂

  どこにでもある、何の変哲もない花時の一場面。昼間の消えた蛍光灯と受け取れ

 ば、花房は陰鬱さを深める。深夜と受け取れば艶冶な肉体性を帯びる。どちらにして

 も、どこか退廃的で病的な印象を伴うのは蛍光灯の暗い光のせいだろう。「花影」は

 本来「かえい」だが、こだわることもない。まるで一房一房、不気味な生き物であるか

 のような桜がここでは表現されている。はなやかでのどかな世界とは無縁の世界であ

 る。簡潔明瞭な写実こそ俳句表現の要であることも、この句は教えてくれている。

    木の根開く会津藩士の声が噴く         佐藤よし江

  雪国会津の風土の匂い濃い。それも会津藩の歴史と密接に結びついた風土であ

 る。斗南藩士の声も聞こえそうだ。






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