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 小熊座・月刊 
  


   2017 VOL.33  NO.391   俳句時評



      若い世代の俳句に刻印された時代の影

                              武 良 竜 彦



  2017年7月号の俳句総合誌「俳句」は、二十代から四十代の新進の俳人の競詠と、ベ

 テラン俳人(「小熊座」編集長の渡辺誠一郎氏もその一人)による同時合評という特集を組

 んでいた。既読の人も多いだろう。四人の選者が、各々「特」「並」を付けて評価した高位の

 俳句を、獲得評価数を付して以下に再録させていただく。 

 「特2」 うぐひすに姿見の位置変はりたる

 「特1並1」 ジャケットに蟻這ひ登る母校かな/ハンカチを畳んでをれば呼ばれけり/誰

 もゐぬ港に虹のたちにけり/逢へぬ夜はプランクトンに戻りけり/脱ぎしものからも草いき

 れのにほひ

 「特1」 沼に泡生まれては割れ草いきれ/青に黴び黄に黴び黴の祭とも/春禽の首の

 あたりをつつき合ふ/守宮鳴く真夜に開きたるエレベーター/逝く春の視界を撫でる布ま

 た布/鉄条網木下闇へと続きをり/新聞の薄さを笑ふ夕涼み/消すひとの目鼻吸ひとる

 テレビかな/夏の雨イヤフォンをして昼ごはん/あらゆるルール若葉二重に映る窓/金

 亀子飛ぶことごとく遺作の繪/冷房の風音かはる夜勤かな/蓮見船子を眠らせて戻りけ

 り

 「並2」 夏痩せてその絵の前を離れずに/うつすらと濡れて粽の笹の嵩/六月のキリン

 淋しいかと父は/路地涼し猫と老人ばかりなる/コールセンターヘッドセットの照り夜寒/

 接着剤丸く出てくる青葉風

 「並1」の評価句は四十七句もあり全部は紹介できないので特に印象に残ったものだけを

 抜粋する。

  心臓の奥の茂みを踏み鳴らす/曇る日は藤さめざめと垂るるかな/飛びてゆかましよ

 簾は海を向き/日除けして鶏足の朱を目の当たり/雄雌のわからざるまま金魚飼ふ/箱

 庭に往診の医師走らせる/そろばんもピアノも辞めるさくらんぼ/緑陰や鸚鵡つがひで飼

 はれたる/抽斗の取手の売られ麦の秋/萍と雲となんにもない正午/かはほりや縫ひ

 目少なき服を選り/帰省するたびこの街は小さくなる/皆同じ色に日焼けをして家族/昼

 寝覚めひとりで白い街になる/さびしらに海透きとほる日焼けかな

  最後に評者たちの全体的な選後感が掲載されていた。渡辺誠一郎氏は「もっと悩まされ

 る句が出てくるかと期待をしていました。その中で 《糸吐きて川はくらげとなりにけり》 《の

 きすだれ唾液が午後をのびてゐる》 といった句は作者を問い詰めたくなる作品です。こう

 いう句が見たかったし、われわれをもっと挑発してほしかった」と述べている。確かに全体

 的に表現が穏やかで繊細だが伝統帰り的な旧守的表現ばかりである。新しく台頭する世

 代には必ずあった新しい表現を開拓しようとする意思は感じられない。

  世代的なことを意識して俳句作品を鑑賞するとき、その世代が生きているリアルな社会

 的背景についての視座が不可欠である。俳句人口に占める割合が低いのでそのことへ

 の視座が得にくい。具体的には団塊ジュニア世代と呼ばれる三十代前半から四十代半ば

 の1971年から82年生まれの世代と、その下のさとり世代と呼ばれる二十代前半から三

 十代前半の1983年から94年生まれの世代だ。この二つの世代はよく次のように評され

 る。

  団塊ジュニア世代は上の世代の価値観に疑問を持ち、裏切られた感や被害者意識が強

 いという。消費は堅実で自己啓発、自分探し、海外志向が強く、母娘消費・三世代消費型

 だという。政治意識は親世代と真逆で保守的だという。

  さとり世代は周囲への過剰な気遣い、同調圧力が強く異性より同性重視だという。「恋人

 いない」状態の者が過去最高数に達し、背伸びをせず安くてそこそこよいモノで大満足す

 るという。このさとり世代は別の言葉で「ミレニアル世代」とも呼ばれ、インターネット親和性

 があり、所有よりアクセス、コスパ重視などの特徴があると言われる。機能よりもストーリー

 Whyを消費するために働くという原理を持つ。イノベーティブでスマートなイケてる自分像

 を買っているという意識が強い。なるべく物を持たないが自らのスタイルに合うものには投

 資を惜しまず、カネではなく意義で動く行動原理で、「トライブ」という人とつながる共通の価

 値を大切にするという。政治的には保守支持が最も多い世代だ。俳句界でいうなら、それ

 以前の世代にあった「結社」などへの抵抗感が少ないという。

  もっとシリアスにこの世代の社会的現状について掘り下げてみよう。すると彼らの生き辛

 さが見えてくる。

  彼らは見かけ上の平和と苛烈な生存競争の嵐の中、孤立無援の一本の木のように佇ん

 でいる。今や人を使い捨てできる便利な駒としか考えない社会だ。大学時代、学生たちが

 働かざるを得なくなっていた。中途退学や不登校の生徒が貧困層に集中して現れ、貧困の

 連鎖が固定化していた。封建時代の階級制より悪質な社会劣化だ。彼らの就学を困難に

 した学力低下、学習意欲や規範意識の低下という問題は、教育問題ではなく労働問題に

 なっていた。

  その彼らが社会に出たときは、一定の学校を卒業すれば就職ができて一定の生活がで

 きるという時代はとっくに終わっていた。経済界はいつでも辞めさせることのできる使い捨

 ての労働力を当然のこととし、新自由主義の名の下にあらゆるものを市場原理に晒した。

 取り換えの利く駒扱いされた彼らに待ち受けていたのは、非正規雇用という不安定な雇用

 のせいで結婚や育児もままならない生活である。経済的合理性をすべての行動の基準と

 考える新自由主義の原理は、今を生きる人々の心の奥底まで浸透しようとしていると評し

 ている社会学者がいるほどである。

  今の若い世代が居るのはそんな社会なのだ。

  今述べたような視座で、先に引用した俳句作品をもう一度鑑賞しなおしてみよう。すると、

 今の社会の出口のないような閉塞感、声高に理想など語る人への苛立ちとうんざりする気

 分、そんな終わらない日常を引き受けて生きるしかない若い世代の、なんとも言い難い哀

 しみと諦念のようなものが漂っているように感じられないだろうか。その閉塞感も、伝統帰

 り的で旧守的な表現をする自分たち自身で生み出しているようなところがある。

  若い俳人たちの生きる時代の影が、その作品を支える精神に深々と刻印されていると言

 えないだろうか。





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