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 小熊座・月刊 
  


   2017 VOL.33  NO.390   俳句時評



      俳句表現方法についての自覚を

                              武 良 竜 彦



  俳句界には奇妙な慣習があるようだ。

  一人の巨匠的な俳人が現れ、ある俳句表現方法論についての指針を示すと、それが俳

 句界の全体とまでは言わないが、特定の広がりを持った団体などの定説的な方法論とな

 るようだ。そしてそれが恰も掟的な働きを持つ機能として作用し始める。そんな不思議な歴

 史がある。文学界の全体的観点からすれば、それは極めて特異なことだ。

  純文学にも表現方法における「何々派」というような一つの団体的な括りをする場合があ

 る。だがそれは批評的な文脈で、ある時代を象徴したキーワードとして使用される言葉で

 あり、その言葉が特定の広がりを持つ作家たちの金科玉条のような鉄則となって作用する

 ことはない。

  ある俳句表現についての方法論は、ある時代の真摯な表現方法の模索と革新の志の中

 で、誰かによって提唱され実践されたものであり、その時代とそれを産み出した俳人固有

 の方法論である。

  ところが俳句界ではそれを恒久的な作句上の規範にまでしてしまう奇妙な伝統と文化が

 ある。特に伝統俳句派にそれは顕著である。例えば四季の移ろいの諸相に人間的な想

 いを託す近代俳句表現法は、江戸俳諧の言語遊戯的な俳句と決別するための表現方法

 論として有意義だった。(注釈しておけば俳諧の「遊び」の精神は否定されるべきものでは

 なく、それも一つの方法論であるとして加藤郁也が再評価している。その精神は坪内稔典

 俳句に生きている) それはそういう歴史的背景の中での有用性、有効性であり、その時

 代を生きて、それを実践した俳人固有の方法論である。その方法論も時代の変遷の中で

 いずれ有効期限を迎える運命にある。だが俳句界では、それを不変の方法論としてしまう

 ような奇妙な伝統、歴史がある。

  以上のことに思いを巡らせたのは、恩田侑布子氏の朝日新聞 「俳句時評」(二〇一七

 年五月一日)を読んだからである。刊行されたばかりの個人歳時記 『中村草田男全句』

 (KADOKAWA)を巡って、恩田侑布子氏は「震源としての俳句」と題して、こう論評してい

 る。

   (略)本書巻頭に無季俳句は 「畸形の文学」 と記すように草田男は無季を排除し

  た。季題に現実と内面の投影という二重性の世界を求め、「象徴文学」俳句の心臓

  としたからである。だが、俳諧とは昔から畸形を尊ぶものではなかったか。(略)被

  爆し被曝した日本は、すこやかな四季が巡る季題の楽土から追放された生をも自

  らに引き受けてゆくのではないか。(略)ニーチェと芭蕉を血肉化した草田男の濃厚

  で炎炎たる俳句と俳論は豊饒な論争を展開し、現代俳句を拓いた。今も草田男は

  俳句とは何かを問う震源に存在する。その到達点から新たな議論を巻き起こした

  い。


  恩田氏が述べるように、「ニーチェと芭蕉を血肉化した草田男の濃厚で炎炎たる俳句と

 俳論」は、あくまで草田男の固有の方法論である。無季俳句は「畸形の文学」だというのは

 彼のその方法論から帰結した表現方法論としての論理であり、あまねく俳人の「規範」とし

 て作用すべきものではない。「季題に現実と内面の投影という二重性の世界を求め、『象

 徴文学』俳句の心臓」 と考える草田男固有の文学論の文脈の中でだけ正当性を持つ言

 葉である。ある時代を生きた俳人固有の論理と実践の言葉であり、後に続くものすべての

  「範」となるべきものではない。

  「草田男は俳句とは何かを問う震源に存在する。その到達点から新たな議論を巻き起こ

 したい」という恩田氏の言葉は、草田男の方法論を学びつつも、現代を生きる私たちは、

 現代の自分の方法論を模索し実践することで、草田男の表現の地平を乗り越えていかな

 ければならないという意味だ。

  「現代」俳人が共有すべきは、むしろ「被爆し被曝した日本は、すこやかな四季が巡る季

 題の楽土から追放された生をも自らに引き受けてゆくのではないか」と指摘する恩田氏の

 主張の方である。

  恩田氏のこの論評には実は続きがあった。続く五月二十九日の俳句時評の「月光の挑

 戦」と題する論考で、「絶滅危惧種の多行俳句」作家の上田玄氏の句集『月光口碑』を取り

 上げて、「二十年の断章から古希にして蘇った。全共闘世代の漂泊の詩魂を、琢(みがき)

 ぬかれた独自の韻律に造形した句集」と高く評価して、先に引いた五月一日の論旨を別の

 角度から追展開し、次のように結んでいる。

   (略)詩歌の歴史は様式化へのあらがいによって更新される。有季定型一行書き

  を金科玉条としない、こうした異形の俳句とも往還する自由な精神風土からこそ、

  新たな定型も花ひらくだろう。


  「有季定型一行書きを金科玉条」としているすべての俳人が批判されている訳ではない。

  「異形の俳句とも往還する自由な精神風土」を失って、「四季の移ろいの諸相に人間的な

 想いを託す近代俳句表現法」に安住する精神の怠惰が批判されているのだ。

  それでも有季定型を選択して俳句を詠むのなら、恩田氏の主張から何を学ぶべきか。そ

 れは、自分が選択した季題を、今を生きる自分の表現方法論の中で、伝統俳句派とは違

 う異次元の表現装置へと転換する意志、表現方法意識の覚醒と自覚が必要だ、ということ

 だ。

  つまり「四季が巡る季題の楽土から追放された生をも自らに引き受けてゆく」自覚を持っ

 て、季題と対峙するべきだろう。例えば次の句。

   野菊まで行くに四五人斃れけり        河原枇杷男

  この「野菊」はもはや花鳥諷詠的季題の「野菊」ではない。松下カロ氏が言うように、この

 「野菊は切望であり、思想であり、原子炉である」。季題の象徴性を生かした表現で俳句を

 豊かにする時空設定転換の方法である。

  あるいは、本誌同人の阿部菁女氏の次の句のように、

   鍋釜につらなるわれや雁帰る         『素足』より

   春遅き被災地へ発つ道具箱            〃
  

  季題を日本の伝統的な詩歌的感慨を超越して、そのただ中を生きる命の実存的手ごた

 えの造形へと取り戻す、ぶれない方法論、生きてあることと不可分の視座の確立に学ぶ

べきだろう。                   (祝「平成二十八年度宮城県芸術選奨」受賞)





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