小 熊 座 2017/7   №386 小熊座の好句
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     2017/7   №386 小熊座の好句  高野ムツオ



    飲食のかなはぬ身にも星涼し        浪山 克彦

  最近、人工知能(AI)の話題が多い。地元紙にもAIで芸術作品を作る試みが進んで

 いるとの記事が載っていた。AIで作った小説が文学賞の一次選考を通過したり、歌

 詞を入力すると旋律や伴奏の付いた曲ができる自動作曲のプログラムが開発されて

 いて、ウェブ上で誰でも使え、すでに数十万曲作られているという。人間とAIの合作と

 のことだが、作者が誰かとの問題も浮上する。ある美大の教授は「作者という概念自

 体が重要でなくなってくるのではないか」と予測している。芸術の概念が変わる訳だ。

  小説でさえ作れるのだから、AIなら名句に劣らない句の百や二百、朝飯前に並べら

 れるだろう。それじゃあ、俳人は必要なくなるかというと、そうはならないところに俳句

 の特質がある。たしかに全国的な俳句大会で受賞しそうな作品はいくつもできる。だ

 が、俳句の場合、作者という生身の人間と一体となってこそ価値が生まれる。「俳句

 は私小説」と言ったのは石田波郷だが、単に一人称で書かれているという修辞上の

 特質によるだけではない。例えば、子規の〈いくたびも雪の深さを尋ねけり〉は起き伏

 しのままにならない病人の句であって初めてかけがえのない重みが生じる。

  掲句、俳句は一人称との原則に従えば、作者自身のことと読むべきだろうが、「か

 なわぬ身にも」という措辞は自愛としては感情が入り過ぎで、むしろ、傍らで見守って

 いる人の視線と解すべきであろう。ここでは「星涼し」の星はアンタレスよりも命の源

 のような天の川の方がふさわしい。

    がらくたに手足の生ゆる梅雨の宿        阿部 菁女

  「がらくた」がいろいろ想像できそうだが、この句の場合は、やはり、一人称で読む

 べきであろう。その方が対象がはっきりしてくる。つまり、宿に身を横たえた自分の体

 を用なしのがらくたに喩えているのだ。一日あいにくの雨の中を歩き続けてきたのだ

 ろう。やっと宿に到着し、がらくたのようになって眠った。そして、十分休息をとると、

 がらくたであった体から、生まれ変わったように、また手足が出てきたと感じた。さて、

 明日はどこまで足を伸ばそうか、そう考え始めてもいる。旅好きの風狂。芭蕉にも通

 ずる思いである。

    岩手切炭となる木に若葉雨        四戸美佐子

  「岩手切炭」は岩手生まれの上質の楢炭、短く切ってあるので切炭と呼ぶ。火持ち

 がいい寒冷地に欠かせないもの。やがて、人に伐られ炭となる楢の林にも雨は慈し

 むように降る。

    嘴広鸛のごとポストあり春の暮        増田 陽一

  嘴広鸛はアフリカの湿地に生息する。人工繁殖が非常に難しい。じっと動かない嘴

 広鸛も赤いポストもやがて、この世から消え失せる運命にある。

    遠蛙苦海浄土に栞差す        丸山みづほ

  石牟礼道子の『苦海浄土』を読破中の句。

    心にも骨葉桜の夜は軋む        草野志津久






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