小 熊 座 2016/12   №379 小熊座の好句
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     2016/12  №379 小熊座の好句  高野ムツオ



    玄関の玄の暗がり石蕗の花        我妻 民雄

  辞典によれば、玄関は「老子」に〈玄之又玄衆妙之門〉とあり、元は幽玄の道への

 入口を意味した。転じて禅学への入門を意味するようになり、さらに寺院の方丈の入

 口を指すようになったらしい。その後、しだいに一般住宅の入口の意味と変わってい

 った。幽玄とはまた難しい言葉だが、仏法でいう、たやすく理解しがたい深淵な道理

 というぐらいに解していいだろう。世阿弥の『花伝書』の序にも「ただことばいやしから

 ずして、すがた幽玄ならんを、うけたる達人とは申すべきか。」とある。

  今の日本家屋の玄関に、「幽玄」の本来の意味を重ねてもこじつけにしかならない

 が、初めて訪ねた家の玄関に入った瞬間、どこか異質の空間に入り込んだような不

 思議な感覚におちいった経験は誰もがあるだろう。まして、そのくらがりに黄の石蕗

 の花が置かれてあれば、先に拡がる屋内という空間への期待と畏れとが自然と高ま

 ってくる。家とは今生きている家族だけが住むところではない。今は亡き家族、そして

 家を守る家霊ともども住むところだ。実際、入った瞬間から、調度も含め家全体が来

 訪者に、その家の世界をさまざまにささやきかけてくる。玄関は玄妙な世界への入り

 口なのである。深読みかもしれないが、この句はそんなことに思い巡らせてくれた。

 「玄」は黒や冬と同義。

    白芙蓉幾度も羽化繰り返し         大場鬼怒多

  「芙蓉」は本来大きな花のことで、蓮を指す。そこで蓮と芙蓉を区別して、後者を木

 芙蓉と呼ぶこともある。芙蓉は、朝咲いて夕方に萎む、その薄い花片のさまは、たし

 かに大きな白い蝶の姿に似ている。直喩的に表現せず「羽化」と見立てたことで白芙

 蓉が生命感を伴って、まるで息づいているかのように感じられる。

    しぐるるや原発見える小学校        植木 國夫

  おそらく福島県浪江町の請戸小。大震災の津波が押し寄せる中、全校児童は近く

 の山に避難して奇跡的に一人の犠牲者も出なかったところだ。しかし、原発事故後

 は今も児童は戻ることができない、時間は凍り付いたままである。その教室の窓から

 も原発が見えるが、この句は原発の近くの全国の小学校なら、どこでもよいだろう。

 いや、今も普段通り学校生活が営まれている小学校の方がいい。原発は明るい未来

 の象徴から不安定な未来への象徴となった。そのすぐそばで懸命に励む子供たちの

 頭上に冷たい時雨が今日も降りかかる。

    百叩きそれも良きかな木の実なら      蘇武 啓子

  「百叩き」は刑罰の一つ。江戸時代にもあった。軽いと言っても受刑者には過酷な

 刑である。ここでは、木の実が頭を叩くのを大げさに、こう表現したのである。周りの

 子どもの歓声までも聞こえそうだ。

    うぶすなを国土と記す寒さかな        樫本 由貴

    秋風のしみる靴底金欠ぞ           及川真梨子





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