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 小熊座・月刊 
  


   2016 VOL.32  NO.374   俳句時評



      再び定型を考える


                              矢 本 大 雪


  再び俳句の定型について考えてみたい。俳句は五七五の定型詩(定型については異論

 はないが、詩と言われるとどうも…)という方も多いだろうが、私の信ずるところに従って書

 き進める。そこで伝統的な俳句の内容を逸脱した作品については、前回の時評で取り上

 げてみた。今度は、俳句に紛れ込んでいる諸々の記号を取り上げてみたい。


   くらげくらげ 触れ合って温かい。痛い。        福田 若之


   伝説のロックンロール! カンナの、黄!


   さくら、ひら つながりのよわいぼくたち



  これらの作品には、音読できない記号が頻出する。まず一字明け、句読点、エクスクラメ

 ーションマークなどであるが、これらは一般の散文にあってはさほど珍しいものではないが

 俳句の中ではやたら目を引きそうだ。実際、これらの句を引用した『俳コレ』(週刊俳句編)

 の中にも同様の句は見つからなかったし、「現代俳句年鑑 平成二十八年度版」(現代俳

 句協会)の中も探したが、見つからなかった。全く稀有な例なのだが、しかし特別ではあっ

 ても、現実として無視することはできない。

  まず、「くらげくらげ…」の句であるが、意味は通じるようだ。仮に

   くらげくらげ触れ合って温かい痛い

 と表記されていたら、おそらく見逃してしまうかもしれない。六五五三の音数でできた句は、

 読みにてこずるわけでもなく、案外するりと読まれてしまって困ってしまうのかもしれない。

 そこで、

   くらげくらげ 触れ合って温かい。痛い。

 とする必要があったのだろう。一字空けも、句点も、強烈な切れとして働いている。だから

 六、十、三の一句として読まなければならない。

  次の句「伝説の…」の!も一字空けも読点も切れとして立ち働く。

   伝説のロックンロールカンナの黄

 であれば、多少は読みづらくなる。また一本調子の句としてとらえられるだろう。すべてが

 成功していると主張する自信はないが、! を使いたくなる気持ちも少しはわかる。 「や」

 「かな」 などの切字による切れとは、音数に勘定されない分、全く違う次元の切れが生じ

 てくる。たとえば「伝説のロックンロールやカンナの黄」ではどうしても間延びした印象がぬ

 ぐえない。だからと言っていつの場合でも、多用を勧める気は毛頭ないが、すべては、俳

 句作家意識のなせる技なのだろう。 そこで思い出すのは、高柳重信の多行分かち書き

 の作品である。


   身をそらす虹の

   絶巓

        処刑台


  この句の一行ずつの配列には、細やかな配慮がなされている。詩人としての配慮であ

 る。まさに俳句を詩として認めろ、と叫んでいるかのような絶唱である。「虹の」で次の行に

 移るため、その後に強い切れが生じ、「絶巓」ははるか彼方の高みへ我々を誘う。そしてそ

 れはいつしか処刑台としての姿に変わってしまう。この普段の我々の呼吸に挑戦し、乱し

 にくる切れの存在はどうだろう。まさしく詩人の意志ではないだろうか。それぞれの言葉

 (単語)にこめられた詩語としての働きぶりの見事さも、ここにいながら異次元へ誘われる

 ような錯覚を覚えさせる。抽象といえば、ここまですべてを抽象化して見せながら、読み終

 えてふと現実に還らせる。まさに一行で書かれたならば、ここまで一瞬で異空間の中へい

 ざなわれはしなかっただろう。目に訴える切れ、詩の特徴を句に取り入れた傑作と呼んで

 いいと思う。では一句は詩として、多行分かち書きで表現されるべきなのか。否、これは特

 殊な例であるからこそ、存在意義があるのだ。ここまで俳句の形式を変化させるには、そ

 れ相応の意識の緊張が強いられよう。一句ずつが一作の詩として表れるには、これまで

 の俳句の持っていた即興性、軽妙さ、応答性などの優れた特徴も無視されねばならない。

  ただ、我々が金科玉条のように守ってきた、一行で書かれる句作品は、犯すべからざる

 ものではなく、より自由な表現を可能にするものとして認識されたのである。冒頭の句読点

 や一字空けを多用した作品も同様である。ただし、それが一句にとっての表現として必然

 性があるかどうかは、当然ながら絶えず問われる必要がある。たとえば高柳の句も、リズ

 ムこそ、八、四、五としているが、最初の一行も五プラス三、この三と中七にあたる四とで

 旧来の五七五のリズムが読みとしては踏襲され、違和感は少ない。そうすると、単にリズ

 ムの問題でもなさそうだ。形式は特に従来の俳句とは違っており、新しい詩的な魂を訴え

 るために、新しい形式が必要だったのか。

  ここに、「第145回現代俳句協会青年部勉強会」(『現代俳句』6月号)がある。その中で

 片山由美子氏が

   帰り花鶴折るうちに折り殺す         赤尾 兜子

   黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ       林田紀音夫

 の両句を挙げ、「俳句でしか言えないこと」を重視している点を強調していた。ここに現代

 俳句のゆくべき道へのヒントがありそうだ。俳句が求める新しさとは、内容の新奇さにある

 のではなく、いかに言いたいことを俳句に合致させてゆく作業かもしれない。散文で表現

 することを短くしたものではなく、俳句としてより強い表現力をもったものでなければならな

 い。高柳作品にもその理想が満ちていると感じた。





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