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 小熊座・月刊 
  


   2016 VOL.32  NO.371   俳句時評



      二冊の新刊から


                              渡 辺 誠一郎


  近頃、二冊の本を手に取った。友岡子郷『俳句とお話』(本阿弥書房)と小川軽舟『掌をか

 ざす』(ふらんす堂)だ。

  友岡が今回上梓した著作では、「少年少女のみなさんへ」と前書きがある。中高等学校

 の国語教師の経歴ある作者らしく、「やさしく語りかける、俳人・友岡子郷の特別授業」(帯

 文)の体裁である。

  作者は、昭和九年神戸生まれ。「青」「ホトトギス」を経て、飯田龍太の「雲母」の終刊まで

 身を置いている。すでに九冊の既刊句集を収めた『友岡子郷俳句集成』を刊行。評論集に

 『俳句 物のみえる風景』『飯田龍太鑑賞ノート』などが知られている。

  あとがきでは、「この本は、俳句をつくるための入門書ではありません。俳句などつくらな

 くても、俳句にすこしでも興味をもってもらえればと思って、この本を書きました。」と述べて

 いる。  

  この著書は、子どもたちへの俳句への誘いを意図している意味で、「入門書」なのは明ら

 かである。しかし、世の中にある「入門書」の類といえば、とかく教えを垂れるように誘う類

 のものか、その反対に、読者のやる気をくすぐり、媚びをうるような姿勢を見せながら、実

 は傲慢なスタイルのものが目に付く。読者と対等で、しかも絶妙な距離感をもって、その世

 界の魅力を見せてくれるのは実はそうは多くはない。

  〈狐〉のペンネームで書評を書き綴ったことで知られる、山村修は、「入門書こそ究極の

 読みものである―。」とした文章で、次のように書いている。

   「それ(入門書)自体、一個の作品である。ある分野を学ぶための補助としてあるのでは

 なく、その本そのものに、すでに一つの文章世界が自律的に開かれている。思いがけない

 発見に満ち、読書のよろこびにみちている。私が究極の読みものというとき、それはそのよ

 うな本を指しています。」 (『〈狐〉が選んだ入門書』)

   『俳句とお話』も、俳句の実作に即したものではなく、まさに「文章世界が自律的に開か

 れ」、俳句との付き合い方を真っ向から論じている内容が魅力だ。取り上げている俳人は、

 飯田龍太はもとより、子規、虚子、素十、暮石、鷹女、立子、草田男、三鬼、鬼房、兜太な

 どの五十六句である。これらの鑑賞文に、それぞれの俳句から作者が触発された思い出

 や少年時代に手に取った詩や『ムーミン谷は大さわぎ』『銀の匙』『クレオ』などの童話・児

 童書などにふれながら、文章を綴っているのが、本書の特徴である。

   編成は、新年に始まり春夏秋冬、そして無季の俳句である。現在教科書に取り上げられ

 る俳句の章では無季俳句は扱っていなかったと思うが、ここでは白泉・鳳作、飛旅子の俳

 句を取り上げているのが眼に引いた。

   白泉の〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉では、戦争が「〈立っている〉ではなく〈いた〉」ゆ

 えに、「戦争は音もなくやってくる」ものであると、戦争の不気味さを述べている。この鑑賞

 を踏まえ、作者は野坂昭如の『火垂るの墓』に登場する戦争孤児となった二人の兄弟の運

 命の話から、戦争の悲惨さを、差し出すように紹介しているのである。

   このように、俳句の鑑賞を通して、俳句に止まらず他の分野を含めて広く身近なものとし

 て考えたいとする作者の姿勢には共感を覚えた。

   等身の言葉と云えば、「俳句日記」の体裁をとって、この度上梓した小川軽舟の『掌をか

 ざす』にもいえる。作者は「鷹」主宰を藤田湘子から引き継いで十年になる。単身赴任の生

 活や退職、再就職とともに多忙な中での一書である。

   作者は、あとがきで次のように書いている。

   「俳句はささやかな日常を詩にすることのできる文芸である。私は以前からそう言い続け

 てきた。俳句日記は図らずもそれを一年通して実践することになった。サラリーマンと俳

 人を両立させるのはたいへんだろうと心配されることも多い。無理して涼しい顔をしている

 ところもないわけではないが、この日記を読んで、案外余裕があって楽しそうにやっている

 じゃないか、と安心していただければ幸いである。」

   なかなかいい言葉である。このように、「俳句日記」は、作者らしく、一日一日を誠実にそ

 して丁寧に、一句を添えて、身辺の感慨を綴っている。壮年期にあって家庭を持ち、仕事

 の最前線に立っている身にとって、職業と俳句の両立は、簡単なことではない。年齢的に

 も責任ある地位にあればなおさらのことである。まさに二十四時間をはみ出て、極私的な

 時間のなかへ、俳句の創作を軋むように割り込ませているのが現状だろうと推測できる。

 私的な表現のための時間獲得は、そもそもがそのようにしてしかできないものなのだ。

   作者の「余裕」の言葉も、過酷な時間の後に訪れる一服の思い出の言葉に近い。寺山

 修司が、「時計の針が前にすすむと「時間」になります。後ろにすすむと「思い出」になりま

 す。」と言ったことを思い出す。

   小生も、厳しい仕事の山を一つ乗り越えて後ろを振り返ると、懐かしさを覚えたものだ。

 微かな喜びが内側から浮かび上がるような一瞬ではあったが。作者はそんな苦しみも喜び

 も内向化して、しかも平静で、涼しげにいる。スマートな男の哀感も浮かび上がるところが

 何とも憎い。 

   本書はどこをとっても作者らしい世界が沁み込んでいるのだが、一つだけ紹介する。一

 月一日から引く。

    「元日は父の家に行く。/父と一緒に母の墓参りをする。墓石にあけましておめでとう

  と言う。/母が死んで四年が過ぎた。父の一人暮らしも四年になる。/東京駅で買って

  きた弁当を父と食べる。/次に父に会うのは盆休みだろうか。日のあるうちに帰る。

    初日記一日がもうなつかしく」

   まさに淡々として滋味のある文章。この自然さはなかなか書けるものではない。作者の

 秀句、〈死ぬときは箸置くやうに草の花 軽舟〉の世界のように、一つの境地を獲得したよ

 うに思うのだが、いわゆる大人風でもない。あくまでも作者らしい素直な表情の見える世界

 なのである。一ページ一ページから、等身大のささやかな生活の鼓動が伝わってくる。心

 の奥から言葉が零れ落ちたような世界である。本書を手にして思ったのは、作者の俳句の

 魅力も同じものとしてあるのではないかということであった。





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