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 小熊座・月刊 
  


   2016 VOL.32  NO.370   俳句時評



      定型を考える


                              矢 本 大 雪


  「現代俳句年鑑」平成28年度版が発行されてから、もう三か月になろうとしている。今回

はそれを眺めながら、現代俳句の現状を見てみたい。

  もちろん現代俳句協会に入会していない俳句作家も多い。しかし、先鋭的な作家の大半

 は、協会に属している、としてもよいだろう。そうすると、この中に少なくとも現代が投影され

 ていると考えてもよい筈だ。


   血に飽きし聲を地に撒き初烏           高橋 陸郎

   網戸抜け荒地を抜けて転生す           瀬戸優理子

   電車から降り夕焼が止まらない          山岸 由佳

   海をまた忘れるために葱刻む           渡辺誠一郎

   人が来て木枯しが来てインターホン        伴場とく子



  ここに挙げた句は、その内容に於いて多くの句とは異なっている。その違いは、発想の

 点に際立っており、どの句も単純な叙景句などではない。しかし、主役としては振る舞って

 いないが、どの句にもしっかりと季語が存在を主張している。ちなみに、渡辺誠一郎さんの

 句では、格別の季語は見当たらないが、この海は、3月11日の海に間違いなく、季感はは

 っきりしている。これらの句は、まださほど多くはないものの、少しずつ作家の間に浸透し、

 こういう書き方も増えて行っているように思われる。但し今更ながらの流行などではなく、明

 治以降の俳句のなかにも、ずいぶんと紛れ込んでいたものである。

   初蝶来何色と問ふ黄と答ふ             高浜 虚子

   人殺す我かも知らず飛ぶ蛍             前田 普羅

   赤貧洗ふがごとく金魚飼ひにけり          飯田 蛇笏



  もう少し過激な作品を拾ってみよう。2534名中各々の五句の作品から抽出した (約半

 数、前半だけを対象にした)。一定の長さのなかに収められた句は、一見して、違和感の

 あるものはすぐわかるようになっている。

  目に訴えてくる定型をはみ出している句は、まず多行分かち書き、さらに十七字よりも極

 端に長いもの、短いものも目立つ。そのように目に訴える五七五のリズムを逸脱している。


   a竹槍b大王烏賊c寝酒               新井みちを

   昨日まで不安などなかった白桃に刃を入れて  井尾 良子

   みずまるごとのつゆわっはっは           榎並 恵那

   蘖や集団的自衛権                  石田 時次

   二首\刎ねられて\生首に\吸ひつく生首    高原 耕治
   (この句は四行の分かち書きにされている)



  念のために一句目にだけ言及しておくと、明らかに定型を逸脱はしているのだが、読みと

 して、え~たけやり…のように読むと、必ずしも定型を大きくはみ出してはいないように思

 われる。特に、し~ねざけ、の下五に至っては、きちんと定型内に収まっているかのような

 錯覚さえある。リズムの長さに関すれば、俳句にも『層雲』以来の自由律が存在し、珍しい

 わけではない。


   靴箱・傘・無花果・箒・みな不在           岡田  眠

   猫が来る 蛙がかえる 雲が行く          今木登美子

   ・・・で終はる一行十二月               岡部 栄一

   春潮の底よりNever forget me           小川 房子

   クリムトや死に水は唇をつたひ           柿本 多映



  これらの句には、表記の面で特異性はある。一字明けを多用したり、英語をそのまま用

 いたりしながら、他の句との違いを出している。このように一句の特性を考えるとき、表記

 の側面だけをとっても、(日本語の特性から)一句全てを漢字表記にする。また、すべてを

 ひらがな、あるいはカタカナ表記にする。各国の言語との混交、または、記号の多用(萩原

 恭二郎の詩のような)、一字明け、さらには多行分かち書き、そして、段落を変えるだけで

 はなく、一句の形態を変えることによって句を形象化する。などなどが想定される。

  しかし、工夫こそ認めるが、これらの句も二句一章の枠からは出ていない。現代俳句は

 挑戦をあきらめたのだろうか。ただただ五七五の定型に収まることだけを考え、自分の俳

 句を目指そうとはしなくなったのか。

  ここで、先人の句の中に、我々が目標としてもいい句がある。と私は思い込んでいる。


   どうしようもないわたしが歩いてゐる         種田山頭火

   一日物云はず蝶の影さす               尾崎 放哉

   黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ            林田紀音夫

   ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん     阿部 完市

   昼顔の見えるひるすぎぽるとがる          加藤 郁乎


  これらを見習えと言っているのではない。参考にしろと言っているつもりもない。ただ、自

 分の句とは、突き詰めると、形式と内容が合致するところにあるのではないか。今は少し

 形式がないがしろにされている気がする。それは、あまりに俳句が便利で世の中に受け入

 れられているからではなかろうか。それを後戻りする必要はない。が、今こそ自分の言葉

 を載せている器をもっと意識すべきではないか。内容だけを盛り込もうとせず、内容を後押

 しする器も意識してみよう。定型は便利すぎて、我々だけがそれを甘受してしまいそうだ。

 もっと不便な、自問自答を重ねてみてもよいのではなかろうか。





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