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 小熊座・月刊 
  


   鬼房の秀作を読む (56)      2015.vol.31 no.360



         妄想を懐いて明日も春を待つ         鬼房

                                   幻夢』(平成十六年刊)


  佐藤鬼房は「春を待つ」をどれだけ詠んでいるのだろうか。私が知るのは「糸電話ほどの

 小さき春を待つ」とこの句だが、趣はかなり違っている。しかし、どちらの句にもエロスを感

 じる。斎藤茂吉の短歌に自然との交合歓喜を見ると詩人の中村稔がどこかで書いていた

 のを記憶しているが、鬼房の待つ「春」にも生き物の気配がある。それを東北人独特の自

 然観と言ってよいのかは分からないが、「糸電話」の句は小さき春の精の息づかいに耳を

 澄ませているようだし、「妄想」の句はもっと近く深く鬼房と相まみえる春の訪れを待ってい

 るようだ。

  妄想は市民的理性からは否定される想念だが、それを懐かねば春という明日はあり得

 ない、という切実感がこの句にはある。その切実が妄想するエネルギーを生んだような感

 じで、それはまるで失恋した相手になお思い焦がれる青春の狂おしさを思わせる。

  実際は、鬼房絶筆の頃の作ということなので、「明日も春を待つ」というやや奇妙な措辞

 は、もしかして明日さえも遠い心境だったのだろうか。

  それでも、妄想力は健在なのだ。

  「(仏)みだりなおもい。正しくない想念」を妄想というらしいが、晩年の鬼房にとって妄想こ

 そ生の証しであり、ひとつの拠り所だったのではないだろうか。

                                     (小久保佳世子「街」)



  北国に暮らす人々にとって、春を待つとは特別な思いである。長く閉ざされた厳寒の毎日

 から解放され、あたたかな家族の生活がまた始まる。草木は芽吹き、地虫は穴を出る。も

 っとも命の輝く季節を誰もが心待ちにするのだ。

  この場合の妄想とは、病床にあった作者が体力を少しでも取り戻し、春を迎え俳句作り

 に生きることとの解釈で間違いないだろう。が、生々しい真実味を持って迫ってくるのはな

 ぜか。鬼房先生が生まれた日は三月だというのに牡丹雪が降っていたという。百年も前の

 釜石では、ここからが本当の春の到来であったに違いない。それは喜びだけでなく、苦悩

 を知る人生の始まりでもあったのだ。幼少期に父を亡くした喪失感が時には妄想を懐き、

 生への執着となっては、言葉に表現することで自己の存在を確認したのだろう。現実に生

 きて行くには手放すものの方が多いが、家庭への情合や俳句への野心を終生持ち続けた

 理由である。

  そして、作者は永遠に来ないかもしれないそれを明日も待つのだ。春を待つとは明日を

 待つこと。眼差しは今日からその先へと向けられている。だがこの時、すぐ傍らまで死は訪

 れていたのだ。最後はペンを持つことさえままならず、口述によって句を書き留めたと聞い

 た。しかし、弱音を吐くことなく、生涯のすべてを俳句形式によって完結した潔さに生きる悲

 しみと純粋な俳人魂を見るのである。

                                          (佐藤 成之)






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