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 小熊座・月刊 
  


   2014 VOL.30  NO.355   俳句時評



      モンタージュ

                              
矢 本 大 雪


   さて、モンタージュをどう説明しようか。みなが知っていることでもあり、あえて不要な説

  明はいらないのかもしれない、とも思う。基本として二物衝撃(二句一章)であることが念

  頭にあればよい。ただ、モンタージュなどと大仰な言い方をする以上、単なる二句一章と

  は一線を画す方がいいだろう。まず、基本的な風景(背景)とモノあるいはコトとの二句一

  章の例、


     寒夕焼荒馬街を出でゆけり         佐藤 鬼房

    松の花何せんと手をひらきたる       佐藤 鬼房

    両腕は抱くためのもの冬深む        高野ムツオ

    中空に凍る太陽鬼房忌            高野ムツオ


   一方が背景的役割を果たすために、句は比較的分かりやすい。背景の前で物語が進

  む、あるいは思いが語られ、映像的に両者がそれぞれ際立つのである。しかも、互いを

  効果的に支えるわけで、説得力がある。ただし、それはあくまで両者が無難に溶け合うこ

  とが必要で、一方が冒険的な違和感を持ち込めば、当然難しいモンタージュになろう。そ

  れでも形としては、遠く理解が及ばないということは少ない。より先鋭的なモンタージュは


     栗の花坂にかぶさり罪と罰           佐藤 鬼房

    静脈の一脈冬の水族館             高野ムツオ

    ほととぎす迷宮の扉との開けっぱなし     塚本 邦雄

    いつか星ぞら屈葬の他は許されず      杉田紀音夫

    「花は変」芒野つらぬく電話線         赤尾 兜子

    割れたフラスコ 風そよぐ清教徒の墓地   江里 昭彦


   見てわかるように、単純に読み解くことは拒否されている。

   さて、一度基本的なモンタージュの形を定義しておきたい。モンタージュとは二物衝撃と

  もいわれるように、異質なものを二つ並べることなのだが、俳句的なモンタージュはいわ

  ば五七五という閉ざされ限定された箱(器)の中で起きた現象であることが大切なのであ

  る。その中で二つのフレーズがぶつかり合う、もしくは並列に並べられるということが重要

  なのだ。世界が五七五で閉鎖されていなければ、両フレーズは拡散して交わることがな

  い。出会うことがないのだ。それを半ば強引に一つの箱の中で反応させ合うからこそ、モ

  ンタージュとして成立する。そこを意識しながら、掲句を見てもらいたい。

   一句目の、「栗の花坂にかぶさり」はよくわかる光景である。そう見せかけておいて、

  「罪と罰」でこの句を受け止めるには、鬼房の中で何が起こったのかをたどらねばならな

  い。罪と罰を意識しているからこそ、栗の花が発見できたのかもしれないが、そもそも「罪

  と罰」は何処から生じたのか。説明はない。我々は鬼房の心の中をめいめい勝手に旅す

  るほかない。決して共通の結論には至らないだろう。

   ムツオの「静脈の一脈」というフレーズは、まるで分らないわけでもない。腕の血管を眺

  めていたのか、それとも体内の血脈を想像していたものか。しかしながら、「冬の水族館」

  につながる関連性は浮かんでこない。だから面白い。この唐突さ、衝撃性がまさしく俳句

  のモンタージュなのである。もしかするとムツオの中には静脈から冬の水族館に至る道

  筋が当然の如く見えているのかもしれない。しかし、それは万人に共通しているわけでは

  ない。むしろ限られた数人しか感じえないイメージなのではなかろうか。しかし、その人に

  向けてムツオは書いたのだ。誰にでも簡単にわが(ムツオの)俳句が理解されるわけで

  はない、そんな単純なわけではないという強烈な自負だろうか。いやそんなわけでもない

  だろう。むしろ素直に、自分の内なる要求に応じて見せたのが掲句ではないか。ある日

  静脈が冬の水族館に滔々と流れ込むような感覚を意識が捉えたのだろう。

   塚本の句の場合は、もっと意識的であり、意図的でさえある。そう思わせるのは「迷宮

  の扉」である。この詩人には当たり前のこのフレーズが、ホトトギスの一声によって空きっ

  ぱなしであることが確認された。観念的な句は、ホトトギスにより完全に現実世界へと引

  き戻される。さもありなんと思わせれば、この句はもはや立派に市民権を得ている。もち

  ろん塚本自身にとっては、どうでもいいことであるが。

   紀音夫の句の素晴らしさは、どう説明したらいいだろう。「屈葬の他は許されず」、この

  窮屈さがもたらす居心地の悪さが、死者を静かに眠らせてはくれない。そこに、「いつか

  青空」と配することで、二次元の言葉に、三次元的な高さと、四次元的な時間が与えられ

  ている。二つのフレーズが劇的な広がりを生み出したといえる。

   「花は変」というフレーズが何を意味しているかは、どこまで行っても結論に至らない。

  文字通り「花って変だよね」と受け止めていいのか。非常の出来事、あるいは事件を示し

  ているのか。ただ、そのフレーズが「」でくくられていることと、つぎに続く「芒野」と関連して

  いるのかもしれない。しかし、「芒野つらぬく電話線」は何とかイメージできても、「花は変」

  とのモンタージュがどうにもむずかしい。相乗して難しさを募らせるのが特徴的だ。

   「割れたフラスコ」と、「風そよぐ清教徒の墓地」にいたっては、もはやイメージの衝突と

  しか言えない。読み解くべきではないのかもしれない。単純にイメージを楽しめばいいの

  か。それとも何かほかの知的な仕掛けが施されているのか。私には少なくとも理解が及

  ばないが、多少感じられるといっておこうか。ただ、言葉で説明はできない。

   モンタージュとは、このように二つのフレーズが一句に同居することで、何らかの化学反

  応が生じたと見えることなのだ。その反応がもたらすもの(答え)はひとつではない。すべ

  て作者の感覚がもたらす表現。だからこそむずかしく、無限の可能性を秘めているのだ。





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