小 熊 座 俳誌 小熊座
高野ムツオ 佐藤鬼房 俳誌・小熊座 句集銀河星雲  小熊座行事 お知らせ リンク TOPへ戻る
 
  

 小熊座・月刊 
  


   鬼房の秀作を読む (46)      2014.vol.30 no.350



         生きてまぐはふきさらぎの望の夜          鬼房

                                    朝の日』(昭和五十五年刊)


   きさらぎの望月、と来ればそれは西行の歌を思い出せという合図だろう。「ねがはくは

  花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃」。そう思えば、この句の冒頭でわざわざ

  「生きて」と一見不要な語が入ってくる意味も理解できる。もちろん、「きさらぎの望月の頃

  に死にたい」と言った歌人との比較の中で今「生きて」いることを強調するためだ。

   ここまで読み解いたとき、この句の命はただ一語「まぐはふ」に尽きることが理解される

  だろう。「まぐはふ」の一語で「生きて」いることが肉体の感覚として読者に深く感受させら

  れればこの句は成功だし、そうでなければその読者にとって意義を持たない句となる。僕

  としては西行の歌で桜が散ってゆくことの中にある奇妙な清潔さと対をなすものとして、二

  人の男女が絡み合い汗にまみれお互いを欲望する様は生きてここにあることを確認して

  いる作業のようにも思えて好きな句だ。

   さらに言えば、死にたいと思っている西行の歌の作中主体と、生きて性交するこの句の

  作中主体は一見別々の人物であるように見えて実は同じある一人の人物ではないかとも

  夢想する。つまり、「彼」(その作中主体は男性だろう)はその心の中に咲く桜の下で死に

  たいと願いながら誰かと「生きてまぐはふ」のだ。生の極点に死が現れる、それは華やか

  な春の満月の頃が、確かにふさわしい。

                                         (山口 優夢「銀化」)




   典型的な「日本文化」的俳句と言えないか。あまりに粗野、あまりに典雅。伊福部昭の

  音楽や、斯くの如し。

   「生きて」「まぐはふ」という突然の強烈なワンツーに穏やかではいられない。僕たちの

  日々の営みは自分が生きていることを意識の外に置いている。その目を覚まさせる。多

  くの読者が鬼房俳句に惹かれるのは、太い線で一気に書き下ろすこの無骨な力強さであ

  ろう。このとき作者は実際まぐわったに違いないと読者に信じさせる簡潔の力。

   そのあと西行の引用。花の下で死を希う男の美意識や諦観との対比を強調する。しか

  し否定的ではない。まぐわいのあとの満たされた虚脱感、解放された者の安らぎの思い

  がたっぷりと、濃厚に示される。「きさらぎの望の夜」の言葉を得て、僕たちは深い眠りに

  つくことが出来るのだ。

   過去の鬼房論は知らないが、僕にとって鬼房俳句のもう一つの魅力はその韻律感にあ

  る。「切株があり愚直の斧があり」は「ぐぅちょく」と読むことで、しなやかで腰のあるリズム

  が起ちあがる。「齢来て娶るや寒き夜の崖」「馬の目に雪降り湾をひたぬらす」なども立て

  板に水ではない独特の鬼房リズム。この句も句跨りがアスリートの臀筋のように魅惑的

  である。

   鬼房の特質が息づくと同時に、俳句というものの特質がよく見える、いい意味でベタな

  句と思うのである。

                                              (春日 石疼)






                          パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
                     copyright(C) kogumaza All rights reserved