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 小熊座・月刊 
  


   鬼房の秀作を読む (45)      2014.vol.30 no.349



         パセリ嚙む蓬髪の眼は充血し          鬼房

                                     夜の崖』(昭和三十年刊)


   1950年代の半ば、社会性俳句の頃の作。鬼房の自画像であろうか。だが、鬼房の句

  からは私小説風な私へのこだわりが見えてこない。60年代になっても「パセリ」は洋食の

  皿に飾られ、欧米の象徴のひとつであった。ふと、「パセリ」を受け止める「し」が日常へと

  傾く。浮かぶは、散歩途中の寺門の金剛力士像(仁王像)。鬼房の自画像と相まって「パ

  セリ」の苦々しさと憤怒に充血した眼の像は俳諧的滑稽感となる。なおも「パセリ」には清

  涼感もあり、敗戦と米国の支配、食えぬ貧しさと自由の語が複雑にその時代を通して見

  えてくるが、社会性俳句の姿でもある。

   だが、この社会性の憤怒は、時間の集積とともに歴史的なものとなる。同じ『夜の崖』に

  収載されている〈友ら護岸の岩組む午前スターリン死す〉の句と同様に・・・。安井浩司は

  掲句に対して「人々はこの述辞に対してどのように感受するのか」と「戦後俳句考」(『海

  辺のアポリア』)で問うている。カ行のごつごつした音とサ行の息抜く音、モノクロ的映像立

  体の瘤起が詩感となっている。その詩感が「社会的諸相の直叙」から時間の経過ととも

  に歴史的直叙へと姿形を変化させている。

   「噛む」「組む」の動詞切れ、「し」と「す」のサ行音による強調、述辞の俳句作用は現在

  もなお新しい方法である。

                                     (救仁郷由美子「豈」)




   ういういしく柔らかな緑色のパセリと、蓬髪からかいま見える眼の赤い色。ピーターラビ

  ットがパセリを嚙んでいる姿も思い出してしまったが、その充血した瞳の中には、決して

  忘れる事の出来ない、やり場のない怒りの炎が燃え続けているように感じる。

   掲句を何度か繰り返して読むうちに、何故か、ビルマの竪琴の水島上等兵の瞳も脳裏

  に浮かんできた。「帰ってこい、水島」という声。しかし、彼は決して帰らない。その彼の瞳

  には、遠い悲しみと、断念せざるを得なかったやり場のない怒りが秘められていたのでは

  ないだろうか。

   太宰治の短編「雪の夜の話」の中には、「人間の眼玉は風景をたくわえる事が出来る」

  との一節がある。難破船の若い水夫の解剖された網膜には、直前に見た一家団欒の光

  景が映っていた。

   鬼房先生の、鋭い、それでいて暖かい瞳をはっきりと見たのは2001年の9月が最後

  であった。何か魂を射すくめられるような、そんなまなざしであった。

   人が生まれてきた時、最初に見るものは何なのであろう。そして、最後に見るものは。

  パセリのほろ苦さは、何かを忘れてはいけないと細胞に呼びかけているように思える。

                                              (水月 りの)




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