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 小熊座・月刊 
  


   2014 VOL.30  NO.349   俳句時評



         写生論

                              大 場 鬼怒多



   人は風景の中に生きている。にもかかわらず、目の前の風景ほど人が見ていないもの

  はない。風景は日常の背景のようでしかなくなりがちだ。「早春賦」「おぼろ月夜」「もみじ」

  「冬景色」……。唱歌として親しまれる歌の慕わしさは、その歌が喚起する風景の慕わし

  さ。そこに風景を詩に書き表す言葉の魅力が存在する。


    雪薄し白魚白きこと一寸         芭蕉

   芭蕉が桑名の浜辺で白魚があげられてくるのを見たとき、たしかに雪が白く敷いていた


  に違いないし、


    ほととぎす宿かるころの藤の花      芭蕉


   大和の旅宿で藤の花を眺めたときに、時鳥が鳴き過ぎたのもまた事実。そうした事実


  の尊重のうえに芭蕉は「雪薄し」といい、「ほととぎす」という表現が生まれた。しかし、結


  果として得たものは事実の断片に過ぎなかった。芭蕉は推敲の末に、その事実を抹消し


  てしまう。


    曙や白魚白きこと一寸           芭蕉


    草臥れて宿かる頃や藤の花


   桑名の句は冬の句が早春の句に、大和の句は初夏の句が晩春の句になった。芭蕉の


  得た感動は、曙の薄明かりに生動する白魚の白さであり、旅宿のたそがれに物憂い旅


  情をそそる藤の花であったはず。芭蕉は断片的なナマの事実を拒否し、完璧な高次の世


  界に見事に移調した。山川草木、花鳥虫魚、四季の自然は変わらないようだが、写生は


  いつも新しい気持ちで何でも見なければならない。


    鶏頭の十四五本もありぬべし      子規


   子規の本意は客観的世界の尊重にあった。「ありぬべし」と空想のかたちをとりながら、


  十四五本をはっきりと描き地上に立たしめた。そうして、その鶏頭は子規の生命のうちに


  包まれ、生の表現となった。その上で、碧梧桐は性急かつ未熟な芸術理論とともに、めま


  ぐるしく変貌を重ね、解体し消滅していったし、さらには、虚子は花鳥諷詠の説をして、子


  規の肝心の教えを素抜きにした。そこに見えるものを見、そこに触れるものに触れるだ


  けの受動的で消極的、退嬰的な理論として、大衆の中に胡座をかいてしまった。本当に


  見えるためには積極的に見ようとしなければならない。そういう意志が子規の写生論を裏


  付けているのだ。写生とは自分が体験したナマの事実を描き出すことではない。むしろナ


  マの事実の拒否の上に成り立つものなのだ。目にし耳にしたナマの事実が、感動もなく


  作品の中に跡を残すということは、芭蕉が繰り返し心に戒めていたことに相違ない。


   現実に生活を営む作者と、作品から窺われる作者とは、それぞれ別個に存在する。一


  方は現実の世界に、一方は言葉の世界で描かれた虚構の世界に別々に存在してはいる


  のだが、また重なる部分を持っている。その重なる部分こそ、俳句を作る作者であり、事


  柄を演じている作者なのだ。


    銀漢は降りしきりたり石のなか       大井 恒行

   風景が句になり、句が風景と重なり合ってくる。まず天地があり、その天と地をつなぐも

  のとして銀漢があり、天
地の間を吹く風がある。現実世界=全体に対する虚構の世界=

  全体をもって表現することで、自らを立たしめようと
しているのだ。

    天心の浜はまなす薔薇に朋たてこもる  大井 恒行

   天上にあって、浜薔薇にたてこもる朋たりし人々への鎮魂の句。一句の構造は天心を

  媒介として、魂の救いを虚構したものになっている。

   十七音の世界においてのみ存在する風景。現実世界とは次元を異にする小宇宙。同

  時にそれは、あくまでも外界に対する作者の知覚によって支えられている。仮構とは自ら

  が体験しない現実の想像力によって描き出すことではない。自分の体験の支えによって

  非現実の完結した世界を描き出すことなのだ。実は見えていたと思っていたことは、少し

  も本当に見ていたことではなかったのだ。私たちは、自覚と意志を喪失した、思想のない

  風景画を作り出してはいないだろうか。

   まず発見しなければならないのは、対象そのものではなく、作り手にとっての感動だ。

  「白魚」や「藤の花」はそのときの芭蕉の特殊な具体的な感動にほかならない。芭蕉は一

  句の表現の中に、それらをひとつの真実なものに昇華することができたのだ。子規もま

  た、子規の表現方法で、「鶏頭」を事実におけるよりも一層生き生きと具現してみせた。

   人がある言葉に引き寄せられるのは、その言葉によって自分の風景、それによって自

  分が支えられているという思
いを手渡される風景を発見することによるのだから……。




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