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 小熊座・月刊 
  


   2013 VOL.29  NO.342   俳句時評



         昼の洋燈(ランプ)
                         ――すれ違う悲しみを超えて

                              武 良 竜 彦


  新美南吉の童話では「すれ違う悲しみ」という主題が、多様な変奏曲のように繰り返し描

 かれています。例えば有
名な人間と狐のすれ違う思いを描いた『ごんぎつね』。

  そして『おぢいさんのランプ』。みなし子だった「己之助」は小さいころから色んな仕事を手

 伝って暮らしていた
が、ある日、文明開化の象徴ともいうべき明るい石油ランプと出会い、

 それを商って生計を立てる。店は繁盛し彼は家を持ち妻帯者となる。だが次に時代は電灯

 の時代とな
る。職を失う危機感から、彼は村に電線を引いた区長を恨んで、その家に火を

 つけようとするが正気を取り戻し、家
にある全てのランプに石油をつぎ、半田池の岸の榛

 の木の
枝に一つ一つ火をともして吊るし、「わしの商売のやめ方はこれだ」と石を投げて一

 つ一つ割る。自分の商売に見切
りをつけ、無学の彼は猛勉強して本屋に転業する。この

 「己之助」のやり場のない胸搔き毟るような思い。「文明の進歩」が置き去りにする悲哀。こ

 の「すれ違う悲しみ」
の主題は、その後の現代社会に通底する普遍性を持っています。

  例えば石炭から石油の変遷で閉山に追い込まれた炭坑業など、さまざまな産業で職を失

 う人々の悲劇が、全国各地
で繰り返されてきました。そして時代は「原子力の時代」。 資

 源の少ない日本に無尽蔵のエネルギーを供給する夢の
産業で、貧しい地域を豊かにする

 魔法の玉手箱のようだっ
た原発が、世界的にも稀な過酷事故を起こし、泥縄式の安全基

 準の強化で廃炉に追い込まれようとしています。

  原発の存続を諦めない原子力学会や政財界、原発で潤ってきた地方自治体の人々は、

 今「己之助」のような悲しみ
を噛締めているのでしょうか。原発の再稼働を主張する人たち

 の姿には、「己之助」のような悲しみは覗えません。その言動は、先の見えない避難生活を

 送っている福島の人
たちへの想像力を欠いているように感じてしまいます。

  私たちは現状論的に社会的な物事を見てしまう傾向があります。例えば原発がないと電

 力が不足し、火力発電では
電気の価格が高くなるから原発は動かすべきだというように。

 政治の分野はこの思考に満ち溢れています。いずれも
現状論的思考で、自分たちがそん

 な近視眼的で対処療法的
思考をしていることにも無自覚です。

  去年七月の参議院選挙は戦後三番目に低い投票率で、大勝した(有権者の半数以下の

 うちの多数票を得たに過ぎな
い)政権による、経済対策優先政策と憲法論議などの近視

 眼的対処療法政策。この政権を支持して「ねじれ解消」を喜ぶ人たちの思考の中にある、

 政策内容とは無関係の経済
効率型の「決められる政治」などという短絡的な思考。

  この政治的大衆心理の変化は、経済のグローバル化が政治過程に浸入してきた結果で

 す。このスポーツ観戦脳の如
き、短期決戦型思考には近々未来しか視野に入らない。

  この人たちの本音は、「今、経済を立て直してくれなきゃ、未来も何もあったもんじゃない

 よ」ということだ。
原発を平気で外国に売り、原発の放射性廃棄物の処理、廃炉コストを支

 払うのは孫子の代なので、それについて良心
が傷むことはない。災害時に顕著になったよ

 うに、世界的
な広域流通経済システム依存が引き起こした、さまざまな困難と混乱など知

 ったことじゃない。そんな声が聞こえる。

  この思考方法に未来はありません。ここに欠けているのは未来に向けた、根源的で本質

 論的な存在論的視座です。
政界のねじれは解消しても、根源的な存在の在り方に危惧

 抱く心とのねじれは、永久に解消されることはない。

  一方、そのことに疑問や違和感を持つのが文学的思考です。現状論的思考と、どうして

 も逆立してしまう根源的で
本質論的な思考をするからです。例えば、私たちはそもそも税

 金の分配を、政治家と官僚にだけなぜ委ねる必要があ
るのか、日米安保条約だけが国を

 守るのか、そもそも国家
とは何か、国を守るのは軍事力なのか……という思いが沸き起こ

 ってしまう人は文学的思考派の人です。もちろん、
現代俳句はそんな文学であり、その最

 先端に位置します。


  震災体験で学んだことを存在論的に生かすのなら、今こ
そ現在の社会の構造を冷徹に

 存在論的に分析し、この社会
の現状を支える背後にある「見えない世界」に目を凝らす

 きではないでしょうか。だが現実政治は逆戻りしました。

  南吉のもう一つのすれ違う悲しみの童話『てぶくろを買いに』はこう描かれています。人

 間界の帽子屋に手袋を買
いに行った子狐は、狐だとばれないように、母狐が子狐の手を

 人間の手に変えてくれますが、うっかり戸の隙間から
狐のままの手でお金を差し出します。

 店主は狐だと気づき
ますが、お金が本物なので手袋を子狐に渡します。子狐はその体験

 から「人間ってちっとも恐かない」と無邪気に喜
びます。だが母狐は「ほんとうに人間はいい

 ものかしら」
と呟くのでした。原発存続を目論む人たちと、私との間にあるすれ違う悲しみ

 は、この母狐の呟きに似ています。

  このすれ違う悲しみを超えて、根源的で本質論的な存在論的思考が求められているの

 だと思います。評論のような
現状分析的理屈表現ではなく、現代俳句のように、人間の

 存の直接性の復権、生の実感に根差し、人の心に突き刺
さる「喩の強度を備えた文学的

 表現」の更なる深化が。

  新美南吉は童話以外に、詩も短歌も俳句も作った人です。

   ぷりむらハわかるヽ頃に咲く花ぞ  新美 南吉

   秋口の蛍となつて吹かれけり       〃

   紫蘇干してある陽あたりの懐かしき    〃

   たそがれて貝売る街に入る寒さ      〃

  俳人の句に比べて、文人俳句の域を超えるものではありませんが、童話と通底する雰囲

 気の次のような句、

   木枯の消えゆく昼の洋燈かな    新美 南吉

 を読むと、常に困難さを突きつけられる社会状況の中で、現代俳句の文学としての課題に

 ついて考えさせられます。





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