小 熊 座
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 佐藤鬼房全国俳句大会シンポジウム


        
 「鬼房俳句とみちのく」に寄せて   


                                   宇 井 十 間



  今回のシンポジウムにおける「鬼房」と「みちのく」という二つのキーワードは、どちらも

 すでに小熊座ないし塩
竈という風土と癒着してしまっているので、それらを反復するだ

 けでは、鬼房に関する既存の評価をただなぞるだけ
に終わってしまうだろう。鬼房とみ

 ちのくという一見あり
ふれたテーマは、実は極めて論じ難い。「みちのく」を字義どおり

 解釈するだけでは、ともすれば、当たり障りの無い
主宰讃歌になってしまう可能性もあ

 る。しかし、実はみち
のくという素材は鬼房にとって、他の素材と同様に、ある種の二重

 性をもっている。鬼房の長い句歴に一貫する特徴
を一つ挙げるとすれば、その作品と

 読解が人間という仮構
から自由である点にあり、そのような非人間的な俳句として彼を

 読むことで、鬼房とみちのくというテーマの本質が
現れるのではないか。

  たとえば、今回私が選んだ最初の句である。

   海嶺はわが栖なり霜の聲        (霜の聲)

  「わが」を鬼房自身と解釈するか、それともなにか超人間的な存在と解釈するかで、こ

 の句の句意が変わる。作者
自身が海嶺を見ながら「あれは自分の栖だ」と思っている

 という物語的な構図を思い浮かべるならば、それは私小説的な告白に擬してこの句を

 読んでいる事になる。しかし、
鬼房の句の特徴はしばしば、そのような私小説的な仮構

 を
必要としない所にある。例えば著名な「陰に生る麦尊けれ青山河」(地楡)の句にして

 も、ここで表象されているの
は鬼房個人の日常的な身体ではない。描かれているのは

 「青山河」をそのまま身体とするような超人間的な何かである。掲出句の場合も「わが」

 を自分以外の存在と理解
する方が、句の解釈に自由度が生まれる。霧の聲に擬せら

 れた何かが、海嶺を自分の栖であると発話しているという解釈の方が、鬼房の他の句

 との整合性がある。言いかえる
なら、「われ」として発話しているのは、鬼房自身とは限

 らないのである。そして、そのような仮構においてみちのくの風土を読むこむ事もまた、

 読者の自由である。

   伊弉冉の死霊が炎だつ白鳥湖     (霜の聲)

  伊弉冉は、日本神話のイザナミである。白鳥湖をみながら、そこにイザナミの神話を

 重ねてしまうのが鬼房の特徴
であろう。ここで描かれているのは、すでに人間ではなく、

 歳時記的な動物像でもない。黄泉の国に死霊として棲むイザナミが、白鳥湖という仮象

 をかりて鬼房の目に現れてく
るのである。「霜の聲」や「青山河」の句との類縁性は、

 うまでもない。

   綾取の橋が崩れる雪催         (何處へ)

  この句も一見すると、家庭内のたわいない出来事を叙述しているだけのように読める

 のだが、しかし「橋が崩れる」
という異様な記述が、その状況に二重の意味を与えてし

 ま
う。むろん綾取をしている人々が雪催に気を取られてしまえばその綾取がなくなって

 しまうのは当然だが、そこに「橋
が崩れる」というありありとした崩壊の感覚を見てしまう

 ところに、鬼房らしさがある。この句は、言語上は比喩の形をとっていないが、その内

 面には暗喩が隠れている。



  繰り返すように、私は「鬼房とみちのく」というテーマ
そのものには、さほどの可能性を

 みていない。佐藤鬼房が
みちのく出身の俳人であることを称揚する人たちは、では

 に、彼が大阪や四国の出身であったなら、その作品を読
もうとはしないのだろうか。し

 かし、読者の側のそのよう
な意図や思い入れとは別に、鬼房本人にとっては、「みちの

 く」という語彙はそれなりの意味をもっていたようであ
る。いずれにしろ、「みちのく」を文

 字通りの東北地方と
解釈し、その地理性風土性を強調しすぎてしまうと、佐藤鬼房の

 俳句は逆に痩せてしまう。

   みちのくは底知れぬ国大熊(おやぢ)生く     (瀬頭)

  この大熊を鬼房自身の比喩と解釈するとすれば、それはこの句の中に鬼房という人

 間を読みこんでしまうことであ
る。しかし、それでは先に述べた二重性を見落としてしま

 う。ここで描かれるみちのくは、明らかに地理的な意味で
のみちのくではない。「底知れ

 ぬ」という表現が、そのよ
うな平板な解釈を拒んでいるように思える。大熊「生く」という

 抽象語の使用も、俳句のセオリーとしては正しくな
いかもしれないが、この句の場合に

 はむしろ効果的に働い
ている。というのも、「大熊(おやぢ)」が実際の生物というよりも

 何かもっと抽象的な存在に思えてしまうからで
ある。この句のみちのくは、実際にはど

 こにも存在してい
ない。そのような底暗い不在感が、鬼房の句全体に感じられる。



  そういえば、二年前の鬼房顕彰俳句大会は震災の余波で中止となったのだが、この

 句をはじめ鬼房のある種の句に
通底している不在感は、今でもありありと震災直後の

 光景
を想起させる。実際には鬼房は三月十一日の地震とその後の混乱を体験しては

 いない。しかし、彼が描く風土は荒廃
した震災後の風景と奇妙に似通っている。今から

 振り返っ
てみると、それらの句は、そのような精神的風土をまるで預言しているかのよ

 うに見えてしまう。しかし、そもそも
この地震によってあらわになったこの光景は、もとも

 とこ
の地方の精神史に長く潜在していたものではなかったか。考え方によってはそれこ

 そが、みちのくの原風景であった
ともいえるのである。




 

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