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 小熊座・月刊 
  


   2012 VOL.28  NO.331   俳句時評



          多行俳句を考える

                              矢 本 大 雪


  今年、ふとした縁で多行俳句に邁進する俳句作家と句会をする機会をえた。だからという

 わけでもないが、今回は、
俳句の多行分かち書きについて考えてみた。

  先ず、多行の特徴を思いつく限り並べてみたい。

  ○ なぜ俳句の表記は一行と決めてかかるのかが疑問 (これは多行俳句側からの素

     直な表白)。

  ○ 句に立体感や空間的な広がりが生まれる。

  ○ 分かち書きにすることで、逆に句を取り囲む外郭(色紙に書かれた句のように)が見

     え、空間が限定される。

  ○ 暗誦に際して、多行としての特長が雲散霧消し、一行俳句と区別されない。

  ○ 俳句の技巧としての、比喩表現やモンタージュの技巧の存在が顕在化する。それに

     よって逆に面白味が損わ
れる。

  ○ モンタージュが意識されるのは当然であるが、必ずしも二物の衝撃には止まらず、行

     の数だけのモンター
ジュが生まれる可能性が高い。

  ○ 視覚に訴え、詩としての印象が強く残る。

  ○ 多行にするための宿命か、五七五のリズムは壊れたり無視される傾向が強い。

  ○ 多行分かち書きにすると、例句として引用するのが面倒(行をとりすぎるのでスラッシ

     ュを利用すると原句
の味わいを損ねかねない)。また、何処で行変えしているかの記

     憶も確実ではない。

  ○ 内容との関連で、一句でまとまった内容を伝達するならば、多行の意味が薄れる。

     むしろ、イメージの伝達
が先行しそう。

  まだまだ挙げられるのだろうが、思いつくものでもこれだけある。では、これらのことを踏

 まえながら、多行俳句
を作ってみたい。支障があるといけないので、筆者の古い川柳作品

 を例にとり上げてみた。原句は、

    川底の無数のミドリシジミかな

  任意に選んだものだが、比較的多行にしやすそうな句を選んだつもりだ。もし、このまま

 で分かち書きにしてみる。

    川底の

    無数のミドリシジミかな

  平凡だが自然だろうか。しかし、どうにも分かち書きにする必然性は感じられない。せい

 ぜい色紙に書くとすればこ
う書くだろうというぐらいか。これを仮に、三行にしてみても、試

 みの段階を出ない気がする。

   川底の

   無数の

   ミドリシジミかな

  「の」のつながりがやけに強調されるが、それは過重な負担でしかない。リズム(音数)が

 原句のまま(句またがり
にはなっている)であるので強制的な休拍が特別ななにかをもたら

 したと言える自信はない。さらに切れ字の「かな」
が不自然に目立ちすぎてしまう。三行に

 する必然性を念頭
におき、強引に三行俳句とするならば、

   川(の)底

   ミドリシジミ

   またミドリシジミ

 ぐらいだろうか(非才な頭が生み出せる限界)。一行目の助詞「の」を省いたのは、内容的

 にも、リズム的にも安易
な連続性を絶つために仕方のないことだった。一行ずつの切れは

 生じる、しかし、片言の寄せあつめという印象は否めない。そのせいも大きいのだが、五七

 五のリズムは無視
せざるを得なくなる。やはり俳句というよりは短詩に近くなったと思う。た

 だし、句から意味性を薄くすることはや
や成功した気がする。イメージを強調は出来たかも

 しれな
い。それとも私のひとりよがりに過ぎないのだろうか。

  平成十年一月発行の、シリーズ俳句表現『時代と新表現』(雄山閣出版)の中に「絵画と

 新表現」と題する高島直之(文
中敬称を略す)の一文が非常に示唆にとんでいるので、少

 し長くなるが引用したい。

    ―― [フォーマリズムは] ひとつの絵画作品の表現に対して形式と内容に分け、(内

   容)はちょうど料理を味わうように、味覚の趣味的判断に委ねられる。絵画でいえば、

   何が描かれているか以外に、さわやかな色使いであるとか、強い動きのあるダイナミズ

   ムを感じる、といった印象が「内容」に組み込まれる。一方「形式」は、心理学や社会学

   のようなアプローチを排除し、絵画芸術を独自の作品たらしめる骨組み=特性を考察

   する方法論である。そこでは、絵画の本質とは何かを突き詰め、絵画の表面にあらわ

   れる諸要素の分析がなされた。このフォーマルな思考は、元来、形式と内容は不可分

   のものだが、そこでは絵画に潜在的なシンタックス、つまり眼には見えない文法を探求

   する目的がある。絵画の絶対的な要素を他ジャンルと孤絶して、その独自性を浮き彫

   りにする科学的な方法論といえるし、何より、絵画はいかにあるべきか、を問うものだ。

   ――

  この「絵画」を「俳句」と置き替えて読めば、多行俳句が多行という形式に強くこだわる背

 景も少しは理解できそ
うだ。むろん我々が使用しているのは言葉のみであり、キャンバス

 どころか、一色の絵の具すら必要としない。しかし、
俳句こそが形式を強く意識した文芸だ

 と言わざるをえない
のである。一行にして、五七五に収斂するリズムを持つ最短の詩歌で

 あらんとして、営々とこの形式を俳句は磨いて
いるのだ。これだけの時間をかけてまだ磨

 き足りないのか
と言われそうだが、言葉も人も世界も変化し続けるゆえに、俳句は自らの

 可能性を追求し続ける。多行分かち書き
の試みとは、現代俳句が当然抱くべき一つの形

 式の可能性
の追求なのだろう。「現代」という冠をいただけば、のんびりと現在地に甘んじ

 てはいられない。俳句の多行作品の
出現は織込済みのことであったのだ。しかし、全ての

 作品
と同様、いやそれ以上にその形式の必然性や句の世界は厳しく検証されねばならな

 い。次回は高柳重信などの句作
品と向き合い、もう少し具体的に多行作品を見てみたい。







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