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 小熊座・月刊 
  


   鬼房の秀作を読む (15)      2011.vol.27 no.319



        いつの世の修羅とも知れず春みぞれ         鬼房

                                『愛痛きまで』(平成十三年刊)


  人類がこの世に存在した時から、修羅と呼ばれるものも
生まれたのだろう。修羅とは六

 道の一つ、阿修羅の住む争
いの絶えない世界。天、人と地獄、餓鬼、畜生との間にあると

 『広辞苑』には書かれている。人がふたり以上いれば、
そこには愛のみならず修羅もまた

 生まれる。その事実に気
づかされた時、人は宗教や哲学、文学に救いを求めようとするの

 かもしれない。宮沢賢治の詩集『春の修羅』、『銀
河鉄道』をはじめ多くの童話に含まれる

 心と思想は、同じ
東北の地に住む鬼房にとって血肉化されたものだったろう。

  「修羅」という言葉から加藤楸邨の句が頭をよぎった。〈死なば野分生きてゐしかば争へ

 り〉生きるため、また自
分が自分でいるために、人は好むと好まざるとに拘わらずわが身

 に修羅を抱え込むことになる。前掲の句の持つ静謐
さに私はたじろぐ。そこには修羅を抜

 け出た鬼房がいる。


  この句の載っている句集『愛痛きまで』は平成十三年に
刊行された。それから十年、東

 北は千年来といわれるほど
の大津波に襲われ、修羅の巷と化した。自然の猛威の前に

 すすべもなく命を奪われた人々。鬼房の魂はすでに何ら
かの予兆を感じていたのかもしれ

 ない。おりしも春三月。
みぞれまじりの風が被災地を駆け巡る日もあったろう。「春」の一文

 字は、ただ冷たいだけのみぞれではなく、ほのかな希望を感じさせる。

                                              (秦  夕美)



  目を閉じて幾度もこの句を諳んじてみると、なだらかな
調べの中に浮き上がってくる二つ

 の言葉がある。「修羅」
と「春みぞれ」である。私は修羅という語を用いたもう一人の詩人、

 宮沢賢治の作品とその生き方とを対比させて考
えようと思う。畜生以上かつ人間未満の

 世界が修羅道であ
り、賢治は自分が一人の修羅であると言う。宗教的な崇高な世界を希

 求する精神と風俗の日常との隔たりに生じる葛
藤が賢治の修羅であった。一方鬼房の場

 合は、第一に幼少
時に離れた故郷に対する喪失感と、第二に反体制とまでゆかずとも社

 会に対する批判精神と同時に病魔との戦いの、
この喪失感と飢餓感の二つの修羅を常に

 創作の原動力とし
ていたことである。次に「みぞれ」についてであるが、賢治は「永訣の朝」

 の中で死の床の妹のために茶碗二杯のあ
めゆきを掬う。鬼房はこのシーンをふまえたに

 違いないが
それは「春みぞれ」であり、読み手にとって若干の救いとなっていよう。この俳

 句にあって、作者の荒ぶる魂は既に
深く沈静し読み手を追い詰めることはない。ここにあ

 って
読み手は遥かな高みに受け止められ、作者の広い懐に抱き取られる豊かさと安堵感

 を覚えるであろう。

  折しも今年3月11日の大震災の直後、被災地一帯はみぞれ雪が積もった。烈しい修羅

 のあとの白喪服を纏ったような光景であった。

                                              (阿部 菁女)




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