2011/7 №314 小熊座の好句 高野ムツオ
今さら強調することでもないが、俳句は短い。そして、その短さを力とする。短さを
力とするということは、語らないこと、つまり、沈黙の力に頼るということになる。しかし
これは、言葉が本来持っている力に相反するものでもある。言葉とは、語られるため
に生まれてきたものであるからだ。しかし、言葉を費やすことが、すべてを表現できる
ことにつながるかというと、必ずしもそうではないのも事実。語らずにしてこそ語れる
ものがある。このパラドックスが俳句の根拠といえる。
そうはいっても、俳句は現実世界との緊密な関係や背景を、具体性をもって伝える
には、あまりにも短い。つまり、作品成立の状況や時事的側面は作品に盛ることが、
なかなかできないのである。だから、そうした面は、想像力に頼るか、俳句そのもの
以外から得るしか手立てがないのだ。俳句が芸文としての独立性が問われてきた理
由も、実はここにある。もっとも、緊密な状況や時事との関係を、それほど必要としな
い場合には、その如何を問われることは少ない。しかし、例えば、今回の東日本大震
災のような場合は、その如何は、作品成立に大きく関わってくることでもある。 そこを
どう判断すべきか、これは難題である。
さまざま考え方が可能なことを承知の上で、あえて指摘するなら、やはり、作品その
ものは状況や時事から離れて、まず成立していなければならないということになろう
か。状況や時事が結びついて初めて理解可能というのでは、作品としての独立性が
ないということにつながる。だが、繰り返すがなかなか難しい。ケースバイケース。一
句一句判断せざるを得ない場面もある。
春夕焼け路地ことごとく泥を呑み 伊東 卓
これは、東日本大震災の句だろう。しかし、そう限る必要はない。いや、むしろ、ど
こにでもあった昭和という時代の原風景の一つと読んだ方がいい。その方が、消え
去った、かつての少年たちの声も聞こえてきそうだ。大震災の津波の句と読んでしま
うのは、その事実の衝撃が、まだ尾を引いているせいであるからだろう。
牛の額いくつも光り桃は実に 増田 陽一
これはどうか。昨年新聞を賑わせた口蹄疫が背景か。そうも読める。しかし、懐か
しく親しみ深い平和な牧場の一場面とも読める。この「光」を悲しみの光と受け取るか
生の喜びの光と受け取るか、それも問われるところ。その両方が混沌としていると読
むのは読み過ぎか。
さくら貝ほどの記憶を縁とす 松岡 百恵
小熊座人なら、すぐ、このたびの震災の犠牲になった大森知子さんの弔句と読んで
しまいそうになる。それもいいだろう。しかし、もしかしたら、作者の意図は別にあった
かもしれない。少女時代の、かすかな、しかし、忘れ難い縁と読むこともできる。俳句
は、つねにこうした曖昧で多様な読みのはざまに成立している。
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