2011/4 bR11 小熊座の好句 高野ムツオ
棒状に凍てしタオルや自在とは 阿部 流水
この句はタオルを自在を失った存在の謂と短絡して読むならずいぶんと観念的な
作ということになる。しかし、「自在とは」という問いはタオルへ投げかけられている訳
ではない。自在とは、束縛や障害にとらわれぬ心のありようのことだが、そんな、す
べてを放擲した心境とは、いかなるものなのか。そう自問しているのだ。その自問の
前に、凍り付きねじれたままのタオルが、一本ぶらさがっている。それは自在である
ものの、ごく自然なありようなのではないか。そう作者は自答したのだ。硬直こそが自
在というパラドックスにこそ、この句の味わいの深さがある。
遺失物から凍鶴のこゑ微か 高橋 彩子
この句も、凍り付いたままの存在がモチーフ。凍鶴は寒気厳しい原野に、丸めた首
を翼に潜らせたまま一本足で突っ立っているもの。 だから、声など発するはずはな
い。つまり、この声は、声なき声、作者の想像力が生んだ声ということになる。 しか
も、それが聞こえてくるのは遺失物の中だという。遺失物とは、目前には存在しない
物のことだ。姿形もまったく不明なのだ。
江戸末期には東京荒川にまで渡来してきた丹頂鶴は、昭和初期約三十羽にまで
激減した。今は釧路湿原で保護されているが、純粋の野生種は滅びたと言ってもよ
かろう。この句は、その滅びた鶴の声が、例えば、過去という膨大な時間のどこかに
不時着をし、見失われてしまったタイムマシーンの中辺りから聞こえてくるということな
のだ。
降りるべき駅来て降りる春の暮 津里永子
〈枯蓮のうごく時きてみなうごく〉は西東三鬼、〈冬の波冬の波止場に来て返す〉は加
藤郁乎。いずれも同工の句だが、表現されている世界はみな異なる。三鬼の句は枯
れ果て蕭条たるものの、遂の極みの動き。戦死者のイメージもある。郁乎の句には
ナンセンスとアナーキー、つまりは反詩という詩への反骨精神が見て取れる。里永子
の句は、アンニュイとニヒリズムが根底にある。ドライな割り切り方にも見えるが、「春
の暮」からは、その割り切りは、実は、女性らしい詩情の裏返しであるとも読める。そ
して、そこに時代性を感じるのだ。
春めきし墓場の果てにラブホテル 遅沢いづみ
この墓場とラブホテルの対比の衝撃も、まさに現代を生々しく切り取ったものといっ
ていい。
その日からありし日となる冬の月 鯉沼 桂子
「その日」は死別した日ということだろうが、日々一日一日すべてとも読める。私た
ちは日々、過ぎゆく時間と永訣しながら生きているのである。
マンモスの骨みしみしと寒気団 篠原 瓢
この、想像も実にたのしく、かつスケールが大きい。
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