小 熊 座 俳誌 小熊座
高野ムツオ 佐藤鬼房 俳誌・小熊座 句集銀河星雲  小熊座行事 お知らせ リンク TOPへ戻る
 
  

 小熊座・月刊 
  


   2010 VOL.26  NO.305   俳句時評



          超高齢社会の果てに         渡辺 誠一郎

  総務省の最近の推計によると、日本の高齢者は二千九百四十四万人で人口の二十三

 %に達する。そのうち八十歳以上は八百万人を突破する状況にある。高齢者の数が急増

 する一方、高齢者の孤立化はますます進み、この夏には「不明死」なる言葉も登場した。

 家族と同居していたはずの高齢者が死亡届が出されないなどで、所在不明になってしまっ

 た事で使われた新語。新しい言葉が高齢者の世界から「発生」すること自体が、一つの時

 代を象徴している。

  百歳以上の高齢者も四万四千人を超えるらしい。近い将来、高齢者の十人に一人が認

 知症である時代が来るという。高齢者社会は新しい段階に入ったというより、もはや高齢

 者の存在が、社会のなかで特別な存在ではなくなったということだろう。超高齢社会と言え

 る。

  俳句界においては、かなり前から高齢化が嘆かれていたものだが、今やそれも聞かれ

 なくなった。それは同じように、高齢者の存在が俳句界においても当たり前の現実にな


 てしまったからなのだ。いやむしろ、高齢者を抜きに俳句の世界が考えられなくなってしま

 ったといった方が正確だろう。以前、評論家の三浦雅士が、『青春の終焉』のなかで、藤

 村の『春』や漱石の『三四郎』、そして鷗外の『青春』を取り上げ、近代の文学の青春性と

 その終焉について明らかにしたことがあったが、俳句はその圏外にあった。もちろん俳句

 の世界にあっても、芝不器男などに代表されるような「青春」の世界がなかったわけでは

 ない。

  一方、俳句を「老年の文学」と称したのは萩原朔太郎であった。芭蕉は「俳諧は老後の

 楽也」の言葉を残している。俳句が高齢者にふさわしい表現の世界かどうかは別にして、

 俳句の世界において、世間以上に高齢者の比率が高く、多くの高齢者がさまざまな生活

 の場で俳句を「楽しんでいる」のは重い現実だ。

  折しも「俳句」九月号では、「九十代の俳句人生」として特集を組んでいる。特別対談とし

 て明治四十四年生れの医師、日野原重明と金子兜太の対談を載せているが、俳句を作

 ることが、「生きがい」や「脳の活性化」に効果があるなどの話。生きて何かをすれば、効

 果がないものはない。ただ、齢を重ねること、時の重みのなかで、若い時代とは違う何が

 見えてくるのかが興味のあるところ。

  他に特集として、百歳の俳人と九十代の俳人の新作五句と代表句十句に、エッセイなど

 を掲載している。百歳以上として取り上げられているのが、澤井我来、富田潮児。九十代

 としては、下村梅子、文挟夫佐恵ら十六人。

    何もかも遠く見ゆる日桜咲く         澤井 我来

    眼に光覚え半夏の奇蹟待つ         富田 潮児

    捩花の捩ぢれぬ花の紅ぞ濃き        下村 梅子 

    身の果てに凌霄花万朶咲きにけり      文挟夫佐恵

    黴の書に子曰く曰く              後藤比奈夫

    現そ身のしずけささても菊の前        松本  旭

    淡海なりわが玉の緒を風抜くる        森  澄雄

    乾く乾く地面も皮膚もでで虫も         金子 兜太

    わが陰の裡は宇宙と雪女           真鍋 呉夫

    鬼籍にはわが名未だし 鴨足草       伊丹三樹彦

    首の枷昼は解かるる川鵜かな        山崎冨美子

    わが友の蟬よ蛙よ唄おうよ           津田 清子

  文芸の世界で、世代にこだわって特集を組むのは短歌と俳句の世界ぐらいかもしれな

 い。そこにいかほどの意味があるのかは知らない。全ての高齢者が元気で、旺盛な作句

 に励んでいるわけではないだろう。ただ俳句表現において、高齢というだけで特別な意味

 をもたないといえる一方、齢を積み重ねることでしか書けない世界を見せてほしい気持ち

 が残る。世代論を語るのは好まないが、この世代は、戦争や恐慌などの激動を乗り越え

 てきた世代。しかしそれも個々人のさまざまな人生があるだけだ。やはり世代論としてより

 も一人ひとりの置かれた境遇のなかでの表現のあり様を、作品のなかで語る他ない。

  取り上げた作品は、いずれもあくまでも己の身に即しつつ、人生の深まりのなかから表

 出された肉声のように感じられる。それぞれの置かれた境遇については窺い知ることはで

 きないが、私には、超高齢社会になった今、先に述べた高齢者の現代的な課題と表現の

 位層がどのような切り結び方をしていくのかが気になる。高齢者の孤立化や、その果ての

 「不明死」の現実は、西行の歌、 < とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住み憂

 からまし > や 芭蕉の < うき我をさびしがらせよかんこどり > の世界と、現実の

 生活の底の方で、知らず知らずに静かに重なり合ってきているのではないのかと思う。芭

 蕉の場合は、詩想を深める手段としての「さびしさ」や「孤独」。旅という日常から離れるこ

 とで、己を凝視し、対峙する積極的な場面をつくろうとする計算がよく見える。芭蕉の言う

 「野ざらし」は、現実の「野ざらし」ではなく、「虚」としての「こしらえもの」の世界。野ざらしに

 自らの墓所の指定などありえない。

  「孤独死」や「不明死」が、「虚」でなく当たり前になる現在、旅に出なくても本当の「野ざら

 し」に身を置かざるを得ない避け得ない「野ざらしの時代」がやってきたのかも知れない。

  近頃、井上井月なる名の俳人を知った。文政五年(一八二二)、長岡で生まれたとされ、

 もと長岡藩士。芭蕉に傾倒。生来酒を好み、千両千両と唱えて信濃各地を放浪し、書技

 にも優れ、最後は六十六歳で伊那の地において野ざらしに近い往生を遂げた。大正十年

 『井月の句集』の刊行のときには虚子、鳴雪、そして芥川龍之介が賛を寄せた。昭和五年

 には全集も刊行され現在復刻。放浪の漫画家、つげ義春は、『無能の人』の六話「蒸発」

 で井月を取り上げている。

    何処やらに鶴の声きく霞かな         井月

  現在、伊那では、舞踊家の田中泯が井月役とレポーター役で、ドキュメンタリー映画〈ほ

 かいびと〉の撮影が進んでいる。


                          パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
                     copyright(C) kogumaza All rights reserved