小 熊 座 2010/1  bQ96 小熊座の好句
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      2010/1  bQ96 小熊座の好句  高野ムツオ


     山茶花の虻蜂に今あるばかり               古山のぼる

 句意は明瞭。公園でも庭でもよいが、今が盛りの山茶花に虻や蜂がやってきて懸命

に蜜を吸っている。そういう初冬の穏やかな一場面が、この句には描かれている。そ

れを目を細めながら眺めているというところだが、そこで鑑賞を終えては、この句のよ

さを味わったことにならない。この句の眼目は「今あるばかり」という修辞にある。虻や

蜂には「今」という瞬間しかないということだ。〈冬蜂の死にどころなく歩きけり〉は鬼城

の名句だが、間違いなく、そうした明日しか、これらの昆虫には残されていない。小春 

日和を安閑と享受していられるのは人間だけで、虻や蜂には、それは許されない。い

や、どんな明日が自分たちに待ち受けているか。そんなことは虻や蜂の眼中にはな

い。ただ、ひたすら、この瞬間を生きているのである。そういう生を見つめる作者の目

が、ここには存在している。


 ここから先は読み過ぎのそしりを免れなくなるが、この「虻蜂」という言葉には、取るに

足らない虫けらという意味もある。そこに着目するなら、明日の知らない、取るに足らな

い虫けらでさえ、この「今」という瞬間を、必死に生きているのに、という作者の自省の

思いも見えてくるだろう。虻や蜂の生き様に、己の生き様を重ねても読めるのである。

創刊二十五年を迎えようとしている小熊座には、老境に深く参入した連衆が多いが、

老いてさらに精根貪欲な俳人が、古山のぼるを始め数多いのはうれしいことだ。


     芋の皮大根の皮冬に入る                  阿部 菁女

 芋の皮も大根の皮も、今は捨てられつつある食材。芋の皮の延長のような芋茎でさ

え食べたことのない若者は多い。ちゃんと面取りをして上品に煮た風呂吹きや鰤大根

だけが大根料理ではないのだ、などと書くのは私もいよいよ年寄り世代に入った証拠

なのだろう。それはそれとしてめでたいことなのだが、この句の芋の皮や大根の皮へ

のこだわりは食材としての有難味からのみではない。くるくる丸まっているその形や色

に、実を包み守ってきたものの、自矜のようなものを感じているからだ。それは土の中

に育まれるものの精神のありようでもある。


     千仞の谷へしゆるしゆる柿の皮              大澤 保子

 では、この皮はどうだろうか。夜なべの干し柿作りの最中だろう。まるまった皮が落ち

ていく谷とは、もう戻ることのできない幼年の暗闇の谷である。私にはそう読み取れる。  

     ストーンサークル凍土の歯牙として            中村  春
     出涸らしのお茶の葉にある小春かな            小林  檀
     逝く人は額を上げぬ冬の原                 伊東  卓
     白鳥はいつも胸張り飛んで老ゆ              竹中  華

  「小熊座集」は、このところ新人の台頭が著しい。竹中華の復活とともに喜び期待し

たい。




  
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