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 小熊座・月刊 
  


   2010 VOL.26  NO.296   俳句時評



      添 削                 矢本 大雪

 初心者にとって、俳句の作りかたはやたらと難しく思えるかもしれない。実際そんなに簡

単ではないのだが、独力では絶対にかなわないものでもない。ただ、いい指導者に巡り会っ

た時の俳句上達のスピードは、独学の比ではない。だから、俳句界ではよき指導者のもと

で学ぶことが力説される。個人の能力の差もあって、一概には言えぬから、誰かに指導さ

れることを全否定はしない。多くの俳誌主宰の履歴には、師系は誰誰とまるで血統書のごと

く並べ立てられている。それを美しいとは思わないが、まあ良しとしよう。正岡子規以後、高

濱虚子の弟子の誰それの弟子のそのまた弟子のという作家たちの多くが、立派な作品を

残してきた実績から、自分はお師匠さんから直々にこんな指導を受け、こんな風に叱られな

がら学びましたという経験談が、ある意味では説得力も備えているからである。


 創作する側に立てば、俳句の奥深さ、文体や季語さらに仮名遣いの問題に代表される約

束事の多さは、他の文芸より繊密でたまには煩わしくもある。加えて、各々の主宰が継承し

てきた創作信条は、その俳誌の作品を独特の統一感でまとめあげる。そこには目に見えぬ

規範がある。むろん各結社によってその規範の縛りがきついところとゆるいところはあるだ

ろう。客観的には、主宰の作品をざっと見れば、その結社のなかの創作の範囲の自由度は

見えてくる。ただし、自由な作風だから誰もが適当に遊び心のみで創作しているなどというこ

とはあり得ない。作者の手も精神も自由であるということは、自分で自分を律する厳しさに

裏打ちされていなければならないのだ。さてここからが問題である。主宰が度を越えて指導

をしたがることも困ったことだが、なかでも初心者の作品を添削したがる悪い癖は、是非や

めて欲しいのだ。 


 これは川柳の話だが、私が初学の頃、数十句を書いてその時の指導者に見てもらった。

ほとんど×   最後に作品を添削したあげく、その自分の書いた痕跡が微塵もない作品を

雑誌に提出しろと言われたのであった。多少人間も丸くなっていたので、その場はおとなしく

引き下がったが、そのときの失望はあとをひき数年後にその結社を退会する引き金になっ

た。 


 商業俳句誌から具体的な添削の例をひこう

 (誌名、作者、添削者の名はあえて書かない。二例は別の商業誌)。

  
[原句] こほろぎやあかりのかけらをぴよんととぶ 
    
    窓から洩れるわずかな明りを、「かけら」と表現されたのは素敵です。ただ下五が稚    拙です。「ぴよんととぶ」を 「一飛」としてみました。読み方は「ひとっとび」です。  
  
  
[添削] こほろぎや明かりのかけら一飛 

  
[原句] 良妻も悪妻もゐて大根煮る 
    
    料理の講習会のように見えるが不明。したがって俳句的に表現を変えてみる。 
  
  
[添削] 良妻にも悪妻にもなり大根煮る 

 二例共に特に間違ったことを押し付けているわけではない。俳句の基本を踏み外している

わけでもない。と、以前なら取り上げることもなかったろうが、やはり、添削という行為そのも

のが文芸の精神を履き違えているのだと今なら強く思う。 


 作品は侵すべからざる崇高なものなのだ、などと主張するつもりはない。誰が見ても下手

な句は下手なのだ。それを化粧法の変化や衣裳のコーディネートで別物のように着飾るだ

けならまだしも、肝心のモデル(作品でいえば言霊)まで別物にしては、それは添削者の作

品ではあろうが決して原作者のものとは言えない。添削者の俳句観・美的感覚に基づいて

(より厳しく言えばその範囑で)作品が変化するだけであり、作品は添削者の俳句観を色濃

く帯びてしまう。初心者の求めに応じての添削ゆえ、問題はないとするなら、俳句はその時

点で文芸であろうとすることを放棄したも同然ではないのか。作品に黙って×をつける選の

あり方のように無言の教えが俳句にはある。それでもわからない
初心者には句の欠点の個

所を指摘してやれば済む。 


 そもそも添削は怖いという認識が忘れられていはしないか。添削は指導ではなく改竄なの

だ。一句の可能性として、原句がどのようにでも変化することを伝えるには、本人の手でそ

れができるように教えるべきで、手を取り足を取りして主宰の似姿に原句を導くことではな

い。下手な句があってもよいし、多作多捨が俳句の立派な教えではなかったか。添削され

た句がすごい句になるはずはない。添削とは慣れると誰でも小手先で出来るものなのだ。

 
 添削を否定するさらに大きな理由がある。俳句が短い定型であるがゆえに、拭い去ること

の出来ない類型化(パタ
ーン化)の問題と関連している。


 五七五という定型はその短さのため、正岡子規でさえい
ずれ書き尽くされてしまうとの予

想を生んだ。一字ずつの組み合せで十七音を計算すれば、有限であることは間違いない。

現在、俳句が書き尽くされようとしている兆候はないし、定型をややはみだす作品も含め言

葉の無限さ、作家の発想の多様さには驚かされる。しかし一方、一握りの脚光をあびる作

家の陰にその何十倍もの(無名に近い)作者が存在し、一度活字になったものの忘れ去ら

れてゆく作品のなんと多いことか。そこには(有名な作品のなかにも)俳句独特のパターン

化が進んでいるのだ。添削者たちはそのパターンをかなり熟知していよう。初心者の作品を

簡単に別の物に変えられるのは、そのパターンに当てはめてやるだけなのだ。だが、俳句

の類型化は、両刃の剣である。誰もがある程度の作品を作れるようになる代わりに、誰も

オリジナルな作品に到達できないという現象も生みかねない。初心者の発想の未熟さは言

葉の可能性の原点なのだと再認識することが、これからの俳句に求められているのではな

かろうか。



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