小 熊 座 佐藤 鬼房    言霊の澄明を
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     言霊の澄明を


    鳥帰る無辺光追ひながら

    蓑虫に微笑三分の夕日影

    やませ来るいたちのやうにしなやかに

    秋草のいづれの草か日暮呼ぶ
             
    みちのくは底知れぬ国大熊(おやぢ)生く

    鶺鴒二羽降り象型の滑り台

    残る虫暗闇を食ひちぎりゐる

    薄雪や存(なが)らふは出来損ねの樹

    どうしやう時が流れる未草

    七夕の身は狂濤のごとくあり






  

    言霊の澄明を

  私にとって俳句は乱世を生きる詩型。いまどきこんなことをいうと物笑いにされ
 るかも知れないが、安易な娯楽版の流行を思えばそれも結構と甘受するばかりだ。

 「昨日に厭く」ハングリーの精神を掻き立て、明日を目指す未来願望に視点を置く
 ことに変りはない。

  この夏、平成元年から三年までの作品を纏め『瀬頭(せがしら)』という句集を出
 した。年齢にして七十歳から七十三歳。人間性の尊厳を思い詩性の高揚を目ざす
 −とか、常識を超えたアイロニーの高揚−とか、瞬発の超エネルギッシュな詩カ

  ーとかを、わが体に言い聞かせ鞭打って釆たし、精いっぱい作句に努めたつも
 りだが、はたしてどれだけの実りがあったのか心もとない。ただ、結果は覚束なくと
 も、依然として試行錯誤の繰り返しをやっでいるだけでも、私は鬼房にひそかに拍手
 を護りたいのだ。

  それにしても、あまりにも長く生き過ぎたものだ。枯淡・円熟などの資質を持たず、
 もっぱら、われとわが身の戦いのなかで、北方の血を詠みつづけて来たものにとっ
 て、疲壊困債は甚しい。もはや、四十代五十代に見せた活力は無い。私のような生

 き残りに僅かやも詩力があるとすれば、弱者の芸文の芸文たらしめているところを
 手掛りに、疲労困債の極で、必らず見せるであろう「言霊の澄明」を捉えたいものと
 思う。近作に、

   羽化のわれならずや虹を消しゐるは

 というのがある。羽化は仙人になること。仙人になった私らしいのが虹を消している、
 というのだ。仙人は神とちがって有限の生命体。

 しかしながら、束の間の華やぎや幸せは望まない。ひたすらに永遠を追うのが、私
 であり、仙人になった私なのだから−。

 今年になって、井上光晴と中上健次が亡くなった。大いに気になる作家だっただけ
 に心が痛む。



                              (1992/12 アサヒグラフから)
  
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