小 熊 座 2009年3月  小熊座の好句
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     2009年3月  小熊座の好句
                               高野 ムツオ

  
  がさがさとのみ枯蓮の恋の唄     白田喜代子

  この句を読んで思い出したのは

  枯蓮のうごく時きてみな動く      西東 三鬼

 という句だ。昭和二十一年が初出である。唐招提寺での作。
 一読、誰もが念頭にするのは「うごく時」とは、いつのどん
 な時かという疑問だろう。三鬼は、自注で「ぢっと立った、

 微動だにしなかった」枯蓮は「木立を通った秋風に触れると、
 一斉にフラフラとかぶりものが揺れうごいたのです」と述べ
 ている。現実的に動かしたのは風だが、句としては、なにか

 別の力が働いて動いたように読める。それは私の独りよがり
 ばかりではない。三鬼は戦争直後であったことを背景に、「枯
 蓮の一本々々はうつむいて悲欺に堪へてゐる人間に見えて

 来るのでした。」と述べ、さらに「悲しみの祈りに凍結して
 ゐたものが、祈りを解いてうごき出したやうに見えました」
 と付け加えている。いわば「悲しみの祈りに凍結してゐたも

 の」が、枯蓮を動かしたことになる。つまり「動く」という
 自然現象が、自然そのものに起因しながら、作者の心そのも
 のの動きを体現するものとして表現されているということ

 だ。直接体験がそのまま精神体験である世界。俳句表現にお
 ける言葉の働きというものを示す典型的な例といってよい。

  いつものように、肝心の佳句鑑賞から大きく外れはじめて
 いる。白田喜代子の句では、枯蓮を動かしたものは、もっと
 明確である。もちろん、現実的には、三鬼と同じく秋風に違

 いないが、作者は、それは枯蓮の恋心であると言外に主張す
 る。しかも「がさごそ」とたった片言でのみ終わった、調子
 はずれの恋の唄だ。

  この両句に共通しているのは、生命のない枯れの世界で
 あったものが、「揺れ」をきっかけに生命の蘇りを体現して
 いることにある。違いは描写に徹底した三鬼の句の方が萬意

 性に富んでいるのに対して、枯蓮を擬人化した喩的な表現の
 喜代子句の方が、一義的であるということぐらいだ。もっと
 も一義的とはいいながら、その想像世界は十分に広い。譜諦
 味もまた三鬼の句とちがった味わいを湛えている。

  破れ続けながら枯蓮生きてゐる    白田喜代子

  かさこそと枕詞を申す枯蓮         同


  連作と思えるこれらも魅力十分。ただし、こうした擬人化
 表現の多用は、あまりお勧めできない。発想がパターン化し
 て、いつのまにか自己模倣に陥りやすいからだ。喜代子句の
 魅力を堪能しながらも、つい、そんな、いわずもがなのこと
 まで脳裏をかすめてしまう。

  日と月に照らされ通し枯蓮      渡辺 智賀

  表現骨法としては、この句の自然観照のあり方をむしろ基
 本とすべきだろう。

  自由とは何時でも咳の出来ること   千田 稲人

  死に方はいくつもあって寒の雨    矢本 大雪


 この二句の自由、不自由の間もまた味わいが深い。









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