小 熊 座 2008/5 276号 小熊座の好句 
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        小熊座の好句           高 野 ムツオ



  まぼろしの大鳥となり春の山     浪山克彦

  「大鳥」は鶴や鷲などの大型の鳥の総称でもあるが、鵬を指す言葉
 でもある。鯤という大魚が化した、翼は三千里、二度に九万里を飛

 ぶという想像上の鳥のことだ。「荘子」に出てくる。俳句に使われて
 いる場合、どちらの読みにすべきかは、句によって適切に判断すべ

 きだろう。この句は、もちろん後者で、わざわざ「まぼろしの」し
 断ることもない。しかし、この句の場合は、この不要とも思わる

 上五が、枕詞的な効果を発揮し、ゆったりしたリズムを醸し出しで
 いる。そのリズムが、いかにも壮大な鳥の羽ばたきにふさわしく、

 春の山々が、そのまま翼となって飛び立たんばかりの夢想を読み手む
 に誘う。もっとも、この作者にふさわしい句とすれば、

  花好きのはぐれ海猫をり溺谷     浪山克彦

 の方を挙げるべきだろう。「溺谷」という固有名詞が、固有名詞の範囲
 を超えて効果を上げている。無頼漂泊の思い。デカダンの、しか
 し、どこか健康的なエロスの匂いも併せ持っている。

  モンシロチョウこの世から逸れそうに   早乙女未知

 蝶が日本の短詩型に出現するのは、古今集の〈散りぬれば後はあ
 くたになる花を恩ひ知らずもまどふ蝶かな 僧正遍昭〉あたりが初

 めらしい。理由はよくわからない。民間伝承としては、蝶は死霊や
 死の前兆としてイメージされているから、そのせいもあろうが、源

 氏物語には胡蝶の巻がある。また調度品には古くから蝶が紋様とし
 て使われているから、蝶そのものが忌避されていたわけではない。

 蝶紋は、平家の紋で、忌み嫌われたとの説もあるが、詩歌の世界に
 当てはめるのは無理があろう。俳諧の世になって蝶が句材として使

 われるようになったのは、どうも荘子の「胡蝶の夢」がもてはやさ
 れたせいもあるようだ。前句の場合といい、俳句の言葉には、荘子

 の思想が通うといえる。実際、荘子の「胡蝶」を踏まえた俳句は多
 い。鬼房の句もそうである。作句する際、荘子の「胡蝶」を踏まえ

 るかどうか、諸刃の剣となるところだが、念頭に置いていい一つで
 あろう。

 掲句は、作者は意図しているかどうかは別として、荘子を踏まえ
 て鑑賞すると面白い。もちろん、単に作者の分身とするだけでも、

 さまざまな鑑賞が可能だろう。そして、その鑑賞の手だてに、ぜひ、こ
 の句の六五五音のリズム感も加えて欲しい。散文的な措辞とあい

 まって、かろうじて俳句定型に止まっているかに読めるが、その危
 うさが、むしろ、この句の魅力を深めている。蝶は初蝶がふさわし

 い。まして、紋白蝶であれば、もとより生死の儀礼のために生まれ
 て来たような蝶。その命のまぶしさと脆さとが、まるで、この世と

 あの世の崖っぷちを舞い飛んでいるように感じられる。

 卒業や笛を鳴らしてゐるやかん     遅沢いづみ

 春炬燵首だけ出して鳥の夢       阿部流水

 希望と寂蓼、夢と孤独、それが適度に混じりあっている。豊よ
りフモールという呼び方が似合いそうだ。



  
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