小 熊 座 俳誌 小熊座
高野ムツオ 佐藤鬼房 俳誌・小熊座 句集銀河星雲  小熊座行事 お知らせ リンク TOPへ戻る
 
  

 小熊座・月刊 
  


   2007 VOL.23  NO.268   俳句時評

   俳句と写生    矢本 大雪

   俳句はなぜ愛好者(実作者)を増加させえたのか?そこにはいくつかの大きな要因が
ある。まず、五七五という非常に短い韻文形式。この短さは一見「誰にでも書けます」とい

う魅力的なキャッチフレーズを誘発し、入門のハードルを低くした。次に季語の使用が挙
げられる。つまり自然と向き合うという人間にとってまことに心地良い行為を俳句は実践

する。しかも、制約を(多く)設けることでまったく自由(野放図)に仕立て上げられる世界
とは一線を画し、創作に厳しさをあたえることで、何か文学的雰囲気を強めると錯覚させ
るのである。そして、もう一つの要因が、「写生」である。

 写生は、特に初心者にとっては非常に有効な手法である。小学校の図画の時間に、ま
ず公園などで写生をさせられことを思い出す。簡単で確実、つまり見てものを写しとること

の実践、達成感が持てる手法である。この手法は、花鳥諷詠・雪月花など、対自然を大
きなテーマとして掲げ俳句の方向とマッチしている。しかし、心ある俳人たちは、この手法
の持つ大きな危険性にも気づいているはずだ。

 どのような作品がいわゆる写生句として扱われているのか。平成十八年「俳句」三月号
(角川書店) の特集「写生の落とし穴」にさまざまな俳人が写生句として取り上げた作品
のいくつかを挙げる。

 翅わつててんたう虫の飛びいづる    高野 素十

  白藤やゆりやみしかばうすみどり    芝 不器男

  冬菊のまとふはおのがひかりのみ   水原秋桜子

  滝の上に水現れて落ちにけり      後藤 夜半

 これらの句は別々の論者の例句から抜粋したが、実に多岐にわたっている。俳人が写生
という網を非常に大きなのととらえていることが解る。どの一句も、カメラに映し出された光

景をなぞったり、対象の現状を報告したものにとどまってはいない。踏み込んで言えば、対
象と作者(観察者)との間に何らかの感覚の交流が存在している。つまりその作者でなけ

れば、対象のその一刹那は切り取られなかったろうし、まったく同じ物を描いても作者の数
だけの違った表現が生まれただろう(ただし、俳句作家としての意識を確立している場合に
限定され、月並俳句などは論外である)。

 高野素十作品は、草の芽俳句などといわれ、眼前の風景の報告にすぎないと思われがち
だが、それだけで多くの読者を魅了できるわけがない。掲出句も一事実の描写には違いな
いが、飛び出す生命の躍動感と、その瞬間をじっと見守る作者のまなざしが重なり、省略・

抑制のきいた素直な表現がいきている。平凡のなかに紛れ込む非凡さとでも言おうか。無
個性のようにみせる表現は、素十以外の何者でもない個性の強さではないか。

 他の三句については、説明の必要がないほど作者の独自の視線、感懐が色濃く現れてい
る。素十ができるだけ主的な、作者の感慨の強い表現を排し、事実に即した客観的な描写

に徹しようとしたのに対し、三句とも作者の主観が強く浮き出ている。「ゆりやみしかば」「ま
とふ」「おのがひかりのみ」「滝の上」「水現れて」などの表現には、対象を岨噂しきって作者
自身の世界が再構築されている。またの痕跡がありありとわかるのが魅力でもあるのだが、

逆に言えば、素十作品にはそれを逆手にとった、無技巧の技巧とでも呼べそうな省略があ
ざやかであり、みごとな職人わざを思わせる。デフォルメや比喩、クローズアップなどの技巧
はあえて用いず、むしろ定点に構えたレンズが長時間にわたってとらえた対象の時間を、
十七昔に凝縮して見せる頑固な態度が、むしろ清々しささえ感じさせる。

 これらの作者に共通するのは、対象のすばらしさなどではない。その対象を写生しながら、
みずからの内部でどう表現し切るかという表現の彫琢・言葉との葛藤であろう。不思議なこ

とに、私にはこれらの句に季語の意識は見えてこない。結果として季語の働きは生まれて
いるが、てんたう虫も、自藤、冬菊、滝のどれ一つとっても、その瞬間に作者と響きあった

生命なのであり、作者自身の感動でもあった。歳時記を軽々と飛び越えた対象の絶対の
季語感を、作者も共有していると感じられた。

 さらに、この「俳句」の特集で多くの論者が取りあげた例句の大半は、一句一章の作品で
あり、二句一章の作品はごくわずかであった。そこに私は「写生」のむずかしさを見る。俳句

のように十七音に限定された形式にとって、完全な写生(対象を含む光景の全てを写しきる
こと)ははじめから不可能でありまた面白くもない。そこで(作者の世界・言葉として)何を生

かし、何を捨てるかが問われる。つまり、捨象と抽象が同時進行するのが写生に他ならない。

漫然と対象と向き合い、向こうから句がやってくるのを待つ。そんな他力本願的な境地を、写
生の究極のものとするならば、観察者としてすべての感覚と言葉を絶えず緊張させ、鍛えて
おかねばなるまい。一句になるかスナップ真に留まるかの違いは、作者の内なるものにか
かっている。

 歌人斎藤茂吉が唱えた実相観人は、そのまま俳句の写生における基本態度でもあろう。
写生の生は対象の生命であり、写実の実とは対象の実相。生命・実相に到達し感応道

交するのが写生の本質であるとすれば、単に自然の輪郭をなぞることを「写生」として指導
すべきではなかろう。写生が俳句にとって有効な手法であることに甘え、方便である怖さを
忘れるべきではない。そして、自然・対象を前にした作者の想像力を抑刺してはならない。

作家は創作者としての矜持を失うべきではない。ただ、むやみに新奇な、独創的な表現を
目指す必要はない。自然の生命感の前に、自らの世界観が一句を生み出すことの前に、
絶えず謙虚であり、いつでも表現の冒険者でありつづければいい。言葉は望む者にしかや
ってこない。

   



 
                          パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
                     copyright(C) kogumaza All rights reserved