碍    子        田中 哲也
著者略歴

昭和22年  新潟県生れ
小熊座同人
現代俳句協会会員


跋より (抜粋)    高野 ムツオ

 これは、いわゆる団塊世代のどこにでもいる男のどこにでもありそうな句集である。
実際、著者田中哲也はどこでもいそうな男だ。例えば、この世代の男の多くがそうで
あるように、学校を終えるとすぐ故郷を捨てて東京に出てきた。そして、会社勤めを

始めると、それがごくあたりまえのように一つの会社に長年通い続けた。よくある話だ。
郊外の団地に住み、酒と野球が好きで、子どもの教育はカミサン任せというのも最大
公約数ものだろう。しかも、別名全共闘世代といわれる通り、政治にはほとんど関心が

ないくせに、政治やそれらが作り上げる世の中に妙に醒めていて辛口。しかしそれも
口先だけで自ら進んで何かしをしでかそうとするものでもない。どこかインテリ風なのだ
が、その実、優柔不断というところまでこの世代共通の人間像そのままである。

 そういう、どこにでもいる男の、ありふれた日常の中から生れた俳句の集りなのである
が、実はこの句集の魅力も強みも、そうした平凡であることのうちに存在している。平凡
たがこれは大正でも、昭和の戦前、戦中生まれでもない。紛れもない戦後団塊世代の
総量が渦巻いている句集なのである。


     緞帳のやうにビールの泡のぼる

 例えば、この句。ビールの泡などという瑣末的なところにこだわるところなど、今は死語
化したサラリーマンという言葉にふさわしい男のポリシーがある訳だが、その泡に、かって
田舎の中学校の講堂あたりにあった古ぼけた緞帳を夢想している。辺りには、同じサラリ

ーマンやOL(これも死語)らの嬌声が響き、その分淡い。しかし他人の入り込む余地がない
孤独とノスタルジーを感じさせる。まさに団塊中年世代を代表する通俗的感性世界が、見
事にとらえられているということができるだろう。

     初東雲化学物質的団地

     地下街に林立の耳終戦日

     鳥帰る立ち喰ひ蕎麦の脚の列

     野分後の家族みにくきまで睦む

     憲法記念日砂鉄のやうに家族寄る

     子を棄てよ焚火の丈に育ちなば

     第一講「鳥とは何か」星月夜

     パンのみに人は生くべし田螺鳴く

     昭和七十一年なりき昼寝覚

     虹色の蚯蚓核実験二つ

     落花浴ぶ不完全なる死体たち


     そら豆を喰ひたしサザエさん読めば

     氷切る柱時計を毀すごと

     湿りたる火薬と思ふ桜かな

     噴水の熄みたる空を水もつれ

     沼風は波郷の微熱合歓の花

     着ぶくれてより日輪を連れ歩く

     溶暗の飢餓海峡やななかまど

     水中の死や誕生や日の盛り

     にんげんのかくまで軽し蓮見舟


  あとがき(抜粋)

  最後に、鬼房先生の訃報の翌日ノートに記した句を私自身の記憶のためにここに
 とどめておくことにする。

     
寒暁の吊革つかみ師亡きなり

                  平成十四年八月      田中 哲也