小 熊 座 高野ムツオ略歴
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 (高野ムツオ集(平成19年刊行)より転載) 以降加筆


昭和二十二年(1947)七月十四日、宮城県岩ケ崎町(現栗原市)に高野祐治、喜久子の長男として生まれる。夏の蒸し暑い日で、よほどこの世に出るのがいやだったらしく、夕方になってやっと生まれたとは母の話。

昭和二十三年(1948) 十一月、岩ケ崎町で百日の予防接種幼児百数十名が結核に罹り、うち一名が死亡、二名が重体という事件が起きた。私もこの予防接を受ける予定になっていたが、風邪で熱を出し、難を免れたという。それは幸運だったが、予防接種事故の補償で、幼稚園か設立され、小学一年からは辺地にもかかわらず完全給食が始まり、偏食児童の私には苦難の昼食時となった。その小学校の入学で、帰りに校庭の石段の上で、父の知人から写真を撮ってもらったことだけ覚えている。

昭和三十二年(1957) 一月、小学校の三学期始業式で、校長が「日本は戦後十年経って見事復興した。もはや戦後ではない」と述べた。そうか、もう戦争とは関わりがないのかと子供心に思ったが、以後五十年近く「戦後」という言葉を聞くことになる。その頃から、父に連れられて句会に顔を出すようになる。もっとも、俳句を作った記憶はない。気仙沼岩井崎や一関猊鼻渓などの吟行会についていった楽しい思い出がある。
 この年であったと思うが、阿部みどり女が来町してした句会に投句.みどり女の選に入った。記念すべき初投句。夏の雨が激しく寺の屋根を叩いていた夜であった。

昭和三十五年(1960)四月、栗駒町立岩ヶ崎中学校に入学。入学式へ父と歩いて行ったことを覚えている。父よりも背が高くなったと実感した最初。小説を当たり次第に読んだ。二年生の頃「チャタレイ夫人の人」を読んでいて、隣の大家さんに妙な感心のされ方をしたことを覚えている.ひまがあれば、地元の葦句会の根城で、私が幼い頃から親しんでいた館山寺に出かけ、古い「駒草」や句集を持ち出しては読みふけった。河北新報の阿部みどり女選の俳句欄に投句。

昭和三十八年(1963) 四月、宮城県古川工業高校に入学。これを機にみどり女の「駒草」に投句を開始、高校の文芸部では詩作にも熱中。好きな詩人は、萩原朔太郎、北川冬彦、宮沢賢治。同校の生徒会新聞に当時社会党の浅沼委員長を刺殺した山口乙矢について論評。掲載を控えるように指導してきた、当時皆に恐れられていた生徒指導部長を論破して了承させ、得意になる。

昭和四十一年(1966) 四月、神奈川県に地方公務員として就職。江ノ島海岸に三ケ月暮らす。初めての辺の生活。潮の音が耳に残っている。その後、平塚、横浜と居住地を変える。

昭和四十二年
(1967) 四月、國学院大文学部文学科(夜間部)に入学。やっと話が通じる友人と学舎を同じくできる喜びを味わう。同時に「海程」に入会。飯田龍太や高柳重信にも関心があったが、当時読んだ金子兜太の「短詩型文学論」や「今日の俳句」が入会の決め手になった。

昭和四十三年(1968) 國学院大俳句研究会に入会。宮人聖、島谷星狼(征良)、森岡正作らを知る。海程の例会や神奈川支部にも顔を出すようになる、佃悦夫、森田緑郎、谷佳紀らと交流。阿部完市に刺激を受け、大石雄介に叱咤激励されながらの句作生活がこの頃から始まる。大学の現代詩研究会にも、それ以前に所属し、吉岡實、高橋睦郎、天沢退二郎らの詩を読みふける。

昭和四十四年(1969) 國学の同じ夜間部に入っきた大塚青爾らと図って機関誌「零」発行。短歌研究会にも知人ができ、塚本邦雄、岡井隆、岸上大作らの短歌を知る。ことに塚本の歌は鮮烈だった。

昭和四十五年(1970) 四月、地方公務員の職を辞し、学業一本にしぼることにする。先行きはまったくの闇だったが、何とかなると思ったのは、生来の楽天的性格ゆえか。

昭和四十六年(1971) 四月、國学院大を卒業し仙台に住む。中学校の国語講師として働く。初めて赴任した中学校は広い田園に囲まれたところで、都会生活で身に付いていた鬱屈とした心が、みるみる洗われ、蘇生してゆく思いになった。「零」が私の卒業特集を組んでくれた。金子兜太が激励の文を書いてくれる。大塚青爾の計らいがうれしかった。

昭和四十七年(1972) 七月、海程新人賞準賞を受賞。佐藤鬼房始め選考委員の何人かから持続力が欠けていることを指摘された。以後、持続の大切さを噛みしながらも、実践できない数年が続くことになる。

昭和四十八年(1973) 四月、仙台市の北部の中学校に教諭として赴任。バスケットボールの指導に夢中になる。

昭和五十年(1975) 仕事が多忙を極め、作句から、より遠ざかり始めていたある日、同僚教師から「他の仕事は誰でもできるが、俳句はお前でなくてはできない」と叱咤され目が覚めるような思いを味わう。

昭和五十四年(1979)三月、結婚。しだいに定住の思い濃くなり、作句にもそれが反映し始め。この前年に、初めて佐藤鬼房のもとを訪れている。句集『地楡』の評を海程に書いたのがきっかけとなった。

昭和五十六年(1981) 中村孝史が福島から仙台に転勤になったのを機に、広幡茂らと仙台海程句会を発足。のちに京武久美らも加わる。

昭和五十九年(1984) 十一月頃、福島不動湯温泉で海程鍛錬句会。深夜、長命段という階段を下りた谷底の湯で、毛呂篤と語り合ったのが心に残っている。

昭和六十年(1985) 五月、「小熊座」創刊される。九ページほどの薄い雑誌で、不安と期待とが交互に去来した。

昭和六十一(1986) 五月、佐藤鬼房の病気入院を機に、「小熊座」の校正に携わるようになる。前後して高橋次郎の仙台俳句懇話会にも出席するようになる。「小熊座」九月号より「俳句探訪」長期連載開始となる。

昭和六十二年(1987) 金子兜太の勧めで、第一句集『陽炎の家』出版、序文金子兜太、帯文佐藤鬼房。句集を出す喜びとともに俳句の魅力というものを再認識する。

昭和六十三年(1988)八月、第二十四回海程賞受賞。「序説あべかん王国史」を「海程」に執筆。

平成二年(1990) 五月、「小熊座」五周年記念大会(仙台弥生会館)、講師として招いた三橋敏雄から無季句の可能性と難しさを教わる。佐藤鬼房の詩歌文学館賞受賞式に同行し北上市へ。

平成四年(1992) 五月、「小熊座」七周年記念大会(ホテルグランドパレス塩釜)阿部完市を講師に迎える。俳句における言葉のリズムについて示唆を受ける。

平成五年(1993) 五月、第二句集『烏柱』、宮城友栄社より刊行。栞は学生時代からの畏友、武良竜彦。六月、佐藤鬼房の蛇笏賞受賞式に上京。鬼房がどんな話をするか、はらはらしていたが 「もっと早く受賞したかった」の一言に、鬼房先生らしいと苦笑しながらも、己への厳しさを知る。

平成六年(1994) 平成五年度宮城県芸術選奨を受賞。ついで第四十四回現代俳句協会賞を受賞。受賞の知らせは、丁度仙台で開催された現代俳句協会青年部のシンポジウムが終わった夜に届く。次の日の吟行会のバスの中で、得意になって披露する。授賞式は大阪毎日新聞社のホール、同時受賞の沖縄の岸本マナ子ともども、大阪の俳人の祝福を受ける。「俳句研究」十月号で佐藤通雅と対談。俳句と短歌の詩型の違いとそれぞれの魅力のありようを考える機会となる。

平成七年(1995) 五月、「小熊座」十周年記念大会(ホテルグランドパレス塩釜)大井恒行、小澤克巳、片山由子、高澤晶子を招いてのシンポジウムを開催。司会を担当する。金子兜太、三橋敏雄の発言もあり、俳句はかくあるべしと思うことしきりだった。

平成八年(1996) 六月、「小熊座」の湯殿山羽黒山吟行会に参加。初めて両山のご神体にまみえる。十二日、第三句集『雲雀の血』ふらんす堂より刊行。栞、五島高資。

平成十年(1998) 冬、雪の中を佐藤鬼房の句碑除幕式のため岩手県胆沢町に同行。ここは鬼房の母方の故郷にあたる。まさに蝦夷の国の感あり。

平成十一年(1999) 五月、「小熊座」十五周年記大会(ホテルグランドパレス塩釜)基調講演に宇多喜代子。パネラーに仁平勝、正木ゆう子、筑紫磐井、それにムツオ。司会は渡辺誠一郎。俳句表現と時代性とは難問であることを改めて認識した。

平成十三年(2001) 十月、初期食道癌を患い、仙台オープン病院にて、内視鏡切除手術を受ける。

平成十四年(2002) 一月十九日、佐藤鬼房逝去。「小熊座」に執筆中の「鬼房百句」とうとう鬼房生前に擱筆できず忸怩たる思いを味わう。三月二十日の鬼房誕生日に「送る会」を催す。六月、再び初期食道癌にて内視鏡切除手術を受ける。

平成十五年(2003) 二月、第四句集『蟲の王』角川書店より刊行。

平成十六年(2004) 十月、「小熊座」二十一周年記念大会(ホテルグランドパレス塩釜)を開催。講師として高橋睦郎を招く。詩歌に関わるものの姿勢のあり方に感銘を受ける。

平成十七年(2005) 十月より翌年二月まで仙台文学館で「佐藤鬼房展」が行われる。会期中、金子兜太の講演や宇田喜代子などのシンポジウムウム等のイベントも開催。金子兜太の鬼房等の分も長生きをして戦後俳句の語り部になる」の言が心に残る。

平成十八年(2006) この年より俳句研究賞選考委員となる。前年から二年間続いた「俳句研究」の連載「俳句にとって素晴らしいと思うこと」十二月で終了。

平成十九年(2007) 四月、下咽頭癌にて宮城県がんセンターに入院。手術を受ける。

平成二十五年(2013) 十月、第五句集『萬の翅』角川学芸出版より刊行。

平成二十六年(2013) 第五句集『萬の翅』が、二月に読売文学賞(第65回)、三月に小野市詩歌文学賞(第6回)、四月に蛇笏賞(第48回)を受賞。




  
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