人魚姫のトゥシューズ     水月 りの

水月りのは私をはらはらさせる、これからのホープである。
 
                        佐藤 鬼房

 跋  渡辺 誠一郎 <抜粋>

 
 不思議な存在感の水月りのが私の前に現れたのは、宮城県の中新田で
行われた「詩の噴火祭」の時。ここで彼女は自作の詩を朗読したのだが、
会の打ち上げの場で始めて言葉わ交わした。私自身も俳句を朗読して頭

がぽーっとしていたこともあって、何を話したのかは余り覚えていない。ただ
その時、句会へ誘ったように思う。
 当時水月りのは、その会に参加していた詩の高橋順子らとも親交があり、
詩集をすでに何冊か上梓していた。
 
その時の印象は、存在に不思議な軽さのようなものを覚えたことだ。それは
存在感のなさというようなものでなく、綿虫が風に乗って飛び交うようなある種
の軽やかさと神秘さを合わせもったものだ。今もその印象には変りはない。

  
人魚姫声の出そうなさくら雨

  人魚かと問いつめられて花の闇

 いずれも人魚の句だが、桜に人魚の取り合わせは珍しいと言うより奇妙な
世界。だこの奇妙さが水月りのの不思議な世界と言ってよい。ここで季の言葉
文学史上での桜の本位は消え去っている。本位を飛び越えている。しかもそ
れを無意識に行っているのだ。

言葉が彼女の内面から零れ落ちかるかのように思えのだ。言葉が生きている
たった一つの「しるし」であるとの本人自身のをわ借りれば、まさに俳句のかた
ちになったものは、作者の存在そのものである。

  
  
失いし片足拾う春の海

   
花吹雪夢の中まで押し寄せる

  
墓裏に春の魚を置いてくる

  乳房ふたつまあるくはじけ秋蛍

   
雪溶けや未生の我とすれ違う

  凍るケータイ 見つかりません私の首

 いずれの句もシュールな幻想な世界だ。水月は俳句の世界に席を置く以上に
詩の世界のほうが長い。しかし彼女は詩の言葉で俳句を作っているわけではない。
もちろん俳句の言葉で作句しているわけではない。ただ自分の言葉で詠んでいる
だけだ。・・・・・・・
 しかし幻想は彼女にとっては単なる幻想そのものでなく一つの現実なのだ。現実
という幻想なのだ。  

  
花曇り宝石箱に声ひとつ

   春風にクレーの忘れっぽい天使

   赤い橋渡れずにいて蜆汁

   美しき水を飲みたし初日の出

    
瀕死の白鳥 魂の爪くいこみて

    
菫咲く子宮の一番ちかい場所

   台風一過ライオンと目が合っている