佐藤鬼房 佐藤鬼房作品鑑賞  解説 高野ムツオ


 佐藤鬼房俳句作品鑑賞     解説 高野ムツオ



  むささびの夜がたりの父わが胸に  『名もなき日夜』

 昭和12年、生活の転機を求め上京したのは十八歳の時。慣れぬ都会に孤独
をかこっていた夜、ふと父のことを思い出した。鬼房は父を六歳の時に亡く
している。だから、父の面影も、あるともしれぬ、かすかなもの。それは父
が語ってくれた昔話や夜空を飛ぶむささびのように、未知への不安や畏怖を
伴った思い出。しかし、何にもかえがたい深い思いの底に湛えられた面影で
ある。以後、父性は鬼房の大きなテーマの一つとなる。



   毛皮はぐ日中桜満開に     『名もなき日夜』

 昭和25年、実際には桜の下に干されている兎の生皮を見た時の作。無惨に
も剥がれ、すべてをさらされた兎の裏返しの皮の桃色に、自らをあらわにして
咲き満ちている桜を重ねているのである。桜の美しきを愛でる一方、生き物を
殺し、苛みながら生きていかなければならない人間の矛盾した生のあり方。そ
れが満開の桜の妖しいまでの美しきの中に問われているともいえる。毛皮を剥
ぐ刃の音さえ聞こえてきそうな嗜虐的な麗らかさの中に、涙が満ちてあふれて
くる奇妙に明るい光景である。




   齢来て娶るや寒き夜の崖     『夜の崖』


 昭和29年の作。結婚すべき時が来て結婚をした。その自分の眼前に夜の崖が
立っている。崖は暗く寒く凍り、どこにも未来はありそうにないが、ここより
他には、これからの行く手は存在しないのである。しかし、絶望的ともいえる
夜の崖を指し示すだけで、何も語らないことが、ひるがえって、そこにのみ自
分のささやかだが、かけがえのない愛や希望の源があることを黙示している。
戦争の中に青春を迎えた当時の、貧しく寡黙な、しかし、不屈の若者の心が詠
われている。




   蝦夷の商(えい)にて木枯をふりかぶる  『地楡』

 昭和42年の作。鬼房は釜石で生まれた。父は岩手舶岩泉、母は胆沢の出身、
かつて蝦夷、つまり、腰の曲がった蝦のような野蛮人と呼ばれた一族の末裔で
ある。その意識が、貧しさの中に鬼房のハングリー精神を育む原点となった。
虐げられ底辺に生きてあるものの苦渋を一身に引き受けながら、今、木枯しも
受け止めている。しかし、それは卑屈ゆえではない。その血脈、系譜こそ自分
が拠って立つ唯一の孤塁だと、自ら確認しているのである。




   吐瀉のたび身内をミカドアゲハ過ぐ   『鳥食』


 昭和50年の作。この九月、鬼房は過労衰弱のため入院加療している。もとも
と内臓の弱かった鬼房は、胆嚢などの病いとの闘いに明け暮れる生涯であった。
掲句はそうした体調不良の折のもの。食べたものを吐いてしまう己が身内を過
ぎていくのは、かつて、兵役で大陸に赴いた際に出会った蝶の幻影でよる。戦
地では(濛濛と数万の蝶見つつ斃る)という句も作っている。肉体の衰弱の中
にも、蝶に化身して、通り過ぎようとするポエジーの姿を追い求めているので
ある。





  綾取の橋が崩れる雪催(ゆきもよひ)   『何處へ』


 昭和57年の作。母親が子供と綾取りに興じていたのであろう。東北には「雪
暗(ゆきぐれ)」という言葉があるが、空がにわかに暗くなって、今にも雪が
降り出しそうになった。雪が降り出す前に母親がやるべきことは山ほどある。
そうした心の反映だろうか。子供に手渡そうとした綾取りの橋がみるみる崩れ
てしまったのだ。鬼房の句作りの手練ぶりが発揮されている作品。




   この世にて桐の残花の日暮見ゆ     『半跏坐』

 昭和61年、胃の四分の三、それに膵臓二分の一、脾臓などを摘出する大手術
をおこなっている。これは、その入院中の十七句のうちの一句。病室の窓から
暮れ際の桐の残花が見えている。その濃厚な、どこかいいしれぬ妖艶な色は、
死を誘う色であり、この世の埒外の世界のもの。「この世にて」の打ち出しに
は、自分の生の残された時間への思いが込められている。




   胸に扉がいくつもありて土用浪      『半跏坐』

 昭和63年作。夏の浜辺に一人立ち、幾重にも打ち付ける土用の波と相対して
いるときの思いを述べた句である。胸の中にある扉が次から次へと開かれ、こ
れまでの来し方や行く末へのさまざまな思いが時空を超えて去来するのである。
無限の波と無限の思いが一体となっている。
  



   やませ来るいたちのやうにしなやかに  『瀬頭』

 平成2年の作。「やませ」は三陸に海から吹きつける夏の北東風。「病せ」
「餓死風Jなどの表記からも知れるように、凶作をもたらす不吉な風である。
そのやませを「いたち」に喩えた。夜陰にまぎれて、ひそやかに忍びより小
動物を襲う獰猛残酷ないたち。そのしなやかで狡猾な身のこなしは、海や地を
這いながら、冷害をもたらすやませの姿にそのまま重なる。遠い祖の代から農
民を苦しめてきたやませの歴史にも思いをいたしている。




   除夜の湯に有難くなりそこねたる   『瀬頭』

 平成3年の作。「有難くなる」は人が死ぬことを指す東北方言。死を悼む気
持ちより、長寿の往生を喜ぶといったニュアンスが濃い。元気で永らえた死者
へのあいさつと、その死を看収った近親者へのねぎらいの気持ちもこもってい
ろ。そのことを踏まえたうえで、自分自身を揶揄したのである。やれやれ、こ
のまま往生すれば、もうこれ以上誰にも迷惑をかけずにすんだものをという自
虐と優しさが湛えられている。鬼房はこの頃から、こうした諧謔味あふれる句
も作るようになった。




   帰りなん春曙の胎内へ        『枯峠』

 平成6年の作。早暁、ふと目が覚めた。窓から明け初めた東の空が見えたの
だろう。そのはの明るい温かい色に、母の胎内を思ったのである。私が帰るべ
きところ、それは母胎であり、これまで育まれた自然そのものの中なのだ。母
胎回婦と再生への祈りともいえる。「帰りなん」は陶淵明の「帰去来の辞」の
始めの詩句「帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす」に呼応している。




  鉛筆を握りて蝶の夢を見る        『幻夢』

 平成13年、何度も入退院を繰り返し、体力が限界に達していた。しかし、作
句意欲は途絶えるどころか、さらに燃え上がろうとするものさえあった。痩せ
衰え、握力が落ちながらも、句を書き付けようとペンを握りしめたのである。
その半ば朦朧とした意識の中で見た夢は、かつて幾度も見たと同じ、詩の女神
となって飛び交う蝶の姿であった。


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