句集・蟲の王  高野ムツオ

 
丸木舟星を漕ぎ来し匂いあり       高野 ムツオ

この国の民は何処から来たのか、江戸時代ごろから頻りに自問してきた。朝
鮮半島から来た。
揚子江からのボートピープルだ。
シベリア大陸から狐を追って氷の韃靼海峡を渡って来たのだ。等々掲句は
無季である。にもかかわらず、あえかなき季節感がある。初夏の南風のさわ
やかさである。
 「星を漕ぎ来し」の中七が茫洋たる民族渡来のロマンを想起させるのだ。
 ポリネシアの民が丸木舟を操り星を頼りに黒潮にのってこの国に漂着した
のだと言う説を信じたくなる。
古代ポリネシアの航海術として、瓢箪加工したものをコンパス、六分儀とし
て用いられていたと、野尻抱影は著書「星と伝説」で語っている。
 まさに星を辿り新石器時代以来南太平洋を自由に往来していたのだ。そん
な壮大なイメージを感じさせる一句として、僕の脳髄を鮮やかにしたたかに刺
激したのである。
                (安藤つねお)
 


 人は藻なり上野駅とは湖底なり      高野 ムツオ

 新幹線がまだない頃、上野は一大ターミナル駅であった。長距離列車到着ホー
ムから改札口へ向かうコンコースには、戦前の遺物である背の低い梁が幾本か残っ
ており、その下を首を縮め体を前のめりにしてくぐりぬけ、湖底へと下ってゆく。
 
かつて啄木がその雑踏の中でふるさとの訛を聞きに行ったところ、この湖底こそは、
人を藻類化させる一つの巨きな舞台装置なのである。

 人が藻と化して定着する。その夥しい数が東京というエネルギッシュで猥雑なバ
ケモノをつくった。藻はわずかな流れを捉えてそよぐ。政治的にそよげば、たとえ
ば<列島改造>なるうさん臭い標語の下で農民の都市労働者化を押しすすめる。

人の価値を同一尺度で測れるごとき風潮もそのあたりから始まったのだ。中央によ
る地方の収奪をいう人がいるが、事はそれほど単純ではない。農村からこの装置を
くぐり抜けた者たちが、その仕組をつくったことを忘れてはならない。

 文芸的にそよぐとどうなるか。俳句・短歌・劇作・詩・評論そして天皇賞予想その他
ありとあるジャンルを短期間に駆けぬけ、竟に緩慢なる自殺を遂げた天才詩人を例
に掲げればこと足りよう。どちらもその時代と最もよく寝たということができるだろう。果
して彼らはこのバケモノ都市を十分に憎みかつ愛することができたであろうか。

 『蟲の王』は読者の夢の中に入りこみ、邪な想像をかきたてずにおかぬ異形の句
集である。掲句またしかり。いま湖底を形象化するアール・デコの<浅草口>駅舎
のまん前・中空に醜い跨線橋とも歩道橋とも知れぬタコ脚の化物が出来した。湖底
はさらに深く沈んでかつての機能性を失ったかに見えるのだがどうだろう。
                                      〈我妻 民雄〉 
 


  兇暴性溺愛の声夜の白鳥        高野 ムツオ


 句集「蟲の王」の帯の一句。作者の唯一の贅沢はベランダから白鳥が見えると書い
ていた。私の家では雀位だが白鳥とは羨ましい限りである。太く長い首の声帯は野
太い声しか出ないのだろう。夜の静寂な書斎で白鳥の声を聞く。

 白鳥は鳴き合う時必ず向かいあって互いの声に呼応し合う。その声に荒々しさと
物悲しさがあったのだろう。作者はそれを「」「「兇暴性溺愛の声」と書きとめた。感
覚的であり素直に甘受したが、まず出だしの「兇暴性」という言葉に一瞬とまどった。

白鳥の外見の優美さと声のアンバランスは確かだが、こんなに言葉への負荷を作者
は良しとしているのだろうか。帯には「いくたびも虹を吐いては山眠る」「尾にこもる魂
のあり夏の月」柔らかな言い方で核心に触れた句があるのに何故この句を冒頭に置
いたのか。

 あとがきには『切れば血が噴き出る俳句を』とある。詩性の叫びのままの句を提示せ
ずにはいられない作者、陸奥の風土への思いの深さか、善し悪しが解らぬままに惹か
れた一句である。
                                           (遠藤秀子)



  音がして生まれる廃墟梅雨の虹      高野 ムツオ


巡航ミサイル・トマホークが、閃光を発しながら未明の空に次々に飛び立っていくシ
ーンは、湾岸戦争のときの映像とかさなって見えた。

 二百年もむかし、カントはその著書のなかで、国家間の永遠平和のために「常備
軍は、時とともに全廃されなければならない」と記したが、軍隊はなくなるどころか
増強され続け、大量破壊兵器をも生みだした。枢軸国対連合国という構図は過去
のものではなかったのか―。
 「梅雨の虹」だけが希望の掛け橋なのだ。           〈大場鬼奴多〉




 ハーモニカの穴の中なる聖夜かな    高野 ムツオ


世間が 聖夜なら
ハーモニカの中も 聖夜です

「何の不思議は なけれども」
私は気が つかなかったんです

こうして 指摘してもらったから
もう しっかり見るしかありません

この眼で 見つづけます
ひろい 未来があるようです                    〈白田喜代子〉



つまるところただの細胞寒を生く         高野 ムツオ

 例えばこれが虚子の句であっても不思議ではない。かの「去年今年」の
句とどこかで響きあっている。こういうふうに書いてみせる、この書き方
の功も罪もこの句はかの句と通じている。虚子が時間を永遠の中に溶かそ
うとしたのと同じやり方で、この句は、或るものを無化し、かつ、茶化そ
うとしているようだ、虚子は外から、掲句は内から。虚子句もそうだが、
「俳句」はときどきこういうパフォーマンスをやってみせる。

 この句に沿って個人的なことを言えば、家族に、俺の葬式はするなと言
ってある。なぜなら、葬式の「式」が嫌いだからだと。細胞の生き死にが、
通過儀礼に従がわなければならないというのは、或る意味ではブンカ生物
に生まれてしまった不運であると。「つまるところ」とは、<人間>を剥
げばということでもあるし、誕生の瞬間に戻ればということでもある。
(そういえば誕生「式」というものを聞いたことがない)

意味のない、単なる細胞の集まりそのものでしかないと言っているんだ
から、ムリヤリな、例えば、反権力とか、反文明とか、自尊とか、あるい
は、ある生き方の意志とかという読みすらも無用かもしれない。(それも
またブンカだ。)まして「寒を生く」という美しい言い方なんかには乗る
と足許をすくわれる気がする。
        〈田中 哲也〉




洪水の光に生れぬ蝿の王          高野ムツオ

   これは洪水のように溢れる光か。或いは「大洪水」に死滅したあと光と共に

  輝かしく再生した生き物の一種族か。

  句集『蟲の王』の中には題名のように、よく、俗に卑小とされる昆虫の復権が

  見られる。

   金蝿が来て夕焼けの話する

   肉厚にして可憐なり冬の蝿

  などもそうで、これらは書斎における人間の孤独な思索時の友としての蝿である

  が、同じ種族の中で最も輝かしく復権されたのがこの「蝿の王」であろう。或い

  は生まれた生物の個としての生命の絶対性が「王」であると言うのかもしれない。

  眩しいように明るく、しかも沈潜した、限りないイメージを誘う力強い句である。

                                 (増田陽一)            

                                               
                       

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