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 小熊座・月刊

俳句時評

2025.vol.41 no.485

表現としての匿名性

小田島 渚

昨年十二月、現代俳句協会青年部勉強会「名付けから始めよう 平成・令和俳句史」がZOOMにて開催された(司会黒岩徳将)。平成・令和時代に起こった俳句に関する事象とそれを取り上げたい理由を述べ、名付けをするもので、パネリストの赤野四羽、柳元佑太、岩田奎の回答はごく簡単に要約すると次のようになった。

赤野は、名づけには功罪があると批判したうえで、令和に出現した現象を「α文学世代」として提示した。技巧優勢の平成俳句では忌避されやすい語彙や技術を用いて、俳句に文学的訴求力を持たせ、それまでの流れに影響を与えた作者及び作品を示す。具体的な例として、第十九回俳句甲子園での〈利口な睾丸を揺さぶれど桜桃忌/古田聡子〉、第三十九回兜太現代俳句新人賞での〈終はる永遠 真円の虹がてのひら/小田島渚〉を挙げた。

柳元は、令和俳壇には結社とは異なるあらたな共同体の勃興が起こっていると指摘。あらたな共同体を「ゆるやかなわたしたち」と名付け、その特徴を次の六項目で「伝統的結社」及び「前衛的文学共同体」と比較した。「ゆるやかなわたしたち」は、①中心はわたしであり、②目的はわたしの生の充実である。③イデオロギーは無く、④時間感覚は今・ここに置かれる。⑤読みのモードは制作における実存の重視、⑥他者の句に対しては言語化である。この発想の源として、「楽園」、「麒麟」、「noi」、「蒼海」などここ十年以内に若手俳人が立ち上げた結社を挙げている。

岩田は、未来に起こるであろう事象として「新しい月並」と名付けた。これは赤星水竹居著『虚子俳話録』に収録された対話である「某曰く。先生、百年の後には我々の俳句はいったいどうなるのでしょうか。先生曰く。再びもとの月並に返りますね」が、昭和十年十二月十七日になされたので、これを予言的に捉え、その百年後である令和十七年までに新しい月並が俳壇事象となることが確定しているとするもの。新しい月並は既に始まっており、これからの十年はそこへ向かう大いなる助走期間となると述べた。

俳人名、作品は赤野が二名、岩田及び柳元に至っては一切挙げず、事象の具体的内実は参加者側に大きく委ねられたに近い。いずれも令和の現在とその未来を中心にした考察で、平成を積極的に評価する言及は少なかった。

勉強会のリード文には川名大の平成俳句はどちらかというと新風を目指すエネルギーが全体的に低いような時代だったと思うとの言葉あるが、これには「しかし、新風の更新は必ずあったはずで、平成の俳句史はぜひ書いていただきたいと思っています」(角川『俳句』2024.3)と続きがある。歯に衣を着せずに批評して来た川名が「新風の更新は必ずあったはず」と今さら社交辞令的な発言をするとは思われず、平成を一括して停滞とみなすのではなく、そこにも確実に動きがあったと捉えるべきだろう。

同リード文には『2024年版俳壇年鑑』の鼎談の引用があり、神野紗希が筑紫磐井に「作家が作品を生み出す段階と、それが表現史に接続していくあいだには、批評的な目と文章が必ず必要」と投げかけている。熟考された卓抜な批評文と名付けは単純に等値できないが、名付けをもっと気軽に行ってよいのではないかと思う。勉強会の三名の名付けが多様な問題提起になっているように名付けは試論であり仮説である。その軽やかさを前提にすれば、名付けは作品を考えるための有効な足場となる。

一例として大塚凱(1995―) の『或』(2025)を考えてみたい。〈小雨ならコートに光る逢ひにゆかう〉〈寝静まるあなたが丘ならば涼しい〉と刹那的な想いを語る主体(僕)には作者が垣間見えず、意図的に或る時代、或る地域、或る人物と匿名化されている。私はこれを「匿名俳句」と呼びたい。名付けとして厳密に定義するのではなく、作者像を直結させない読みを促すための仮称である。

作品と作者像を重ね合わせる読まれ方を、作者側が忌避する傾向は2010年代から顕著になっていたように思う。神野紗希の「透明な私」もその抵抗の一つであろう。生駒大輔の「人生の境涯性を追うより、言葉における純粋性に惹かれる」(『俳句界』座談会2019.5)の発言は作品から作者を乖離させたい志向がより強くなっている。これらの先に「匿名俳句」は然るべくして出現した。匿名性は誰でもない声を立ち上げる力であり、その声は私生活や属性に回収されず、純粋に現代を映す回路となる。句集全体を読むと、一句一句の印象を超えて映像詩のような読後感が残るのも、そのためであろう。

その読後感を生む根にあるものを言語化するなら「透明な暴力」と言えよう。ここでいう透明な暴力とは、かつて集団に属することで生じていた同調圧力とは異なる。

現代社会は共同体の束縛を減らし、個人が孤立して生きられる方向へと進んできた。しかし、孤立した個人のまわりには、今度は顔の見えない圧力が立ち現れる。制度や時代の空気のように、出所を特定できない力が人を拘束するのだ。それは誰の視線でもなく、抗う相手を名指しすることもできないが、確かに存在し、精神を侵食していく。透明な暴力はその抗いがたい圧力である。

大塚の匿名性はまさに、この透明な暴力を映し出している。〈らしく死ぬ蝌蚪の水面に口ゆすぎ〉に見られるのは、「自分らしさ」に過剰に縛られ、匿名性に抗う主体である。しかしこの抗いは、加速するⅠT社会において巨大化する透明な暴力の前には無力である。

一方で、〈豚の眼に豚がぎつしり凪いだら夕〉では、特定の個も声も消え、群れの内部で差異や優劣は溶け去っている。そこには、個人の主張を超えて集団として均される怖さと、意図せずして集団に加担させられる怖さの両方が映し出される。匿名性から生まれるフラット化と相まって、平和に見える夕景の奥に微細で逃れがたい支配の気配を潜ませている。

勉強会に戻ると、岩田は「みんなで新しい月並のリーダーズになろう!」と呼びかけた。「ズ」の複数形は特定の俳人ではなく、遍く届ける声として響いた。「みんな」、そして柳元のいう「ゆるやかなわたしたち」にも、匿名性の志向が感じられる。匿名性は声を解放し、フラット化は関係を解体する。この二つが交わるところに、現代俳句が果たしうる最も鋭利なレジスタンスがあるのかもしれない。

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