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 小熊座・月刊

俳句時評

2025.vol.41 no.484

Howを問う議論へ

樫本 由貴

『俳句』五月号の柳元佑太「腦天壞了(のーてんふぁいら)」は、兵隊シナ語と言われる、旧日本軍の間で使われた日本語と中国語のクレオール言語を用いた七句連作で、〈花姑娘(ふぉあぐーにゃん)割iPhone を不修理(つくろはず)〉〈齒で放下哈爾濱(はうげはるびん)太陽()を貼り忘れ〉などが並ぶ。柳元が「帚」のブログに掲載した解題「作品7句「脳天壊了」(「俳句」2025.5)をどう書いたか」に則れば、柳元は「帝国主義へのロマンティシズムや、あるいはそもそも俳句それ自体が否応がなく引き寄せてしまってように見えるナショナリズム的美学」への抵抗として、明示的にナショナリズムを抱え込むために、それが「透明化され」ない兵隊シナ語を用いたという。

ここにはナショナリズムがどのように現代に引き継がれているのかへの目線がない。ナショナリズムは、2025年参院選で、女性身体の主体性を無視して妊娠や出産の問題を国の存続の問題に接続する言説が跋扈していることに顕著なように、家父長制と女性身体のモノ化として現存している。この連作には、兵隊シナ語を現代でどのように使い、どのような効果を狙うかというHow にあたる部分への思慮がない。ゆえに、〈蟲鳥の苦しき春を無為(なにもせず) 高橋睦郎〉を種とし、現代の「花姑娘」の客体化に無自覚に見える〈花姑娘割iPhone を不修理〉を連作第一句目に置けるのだ。踏まえる遊戯が何を再生産し、「花姑娘」の客体化が何を意味するか。「透明化」の有る無しという二択に留まってばかりではいられない。

六月刊行の『noi』第二号に掲載された小川楓子、野口る理、後藤麻衣子、神野紗希の同世代俳人四人が、口語俳句を語る座談会「口語俳句の育て方」にも似たようなことを思わされた。かつて神野は『おんなの俳句』(2019)に対し、青本瑞季に、「女」や「女らしさ」の定義づけがなく、議論の手続き不足を指摘されているのだが(『俳句αあるふぁ』2020・春)、この座談会でも現代俳句の何を「口語」とするのか明示されない。とまれ、座談会を読めば、議論の中心に俳句がいま・ここの「肉声」を活写しているかどうかがあり、そのために、現代性を担保する「口語」が選択されていることが分かる。ゆえに、長らく男性ジェンダーの持ち物であった漢文を俳句に呼び込んだことが何よりの手柄であり、敢えての表記を評価するために第一義としては書き言葉、そして文語として読み手に想起されるであろう〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎 しづの女〉も口語俳句として挙げられている。この句は、あの時の、しづの女の「肉声」だからだ。一方で、この句が口語俳句なら〈梨咲くと葛飾の野はとの曇り 秋桜子〉は「と」が現代口語なのでしづの女の句よりも口語俳句らしさを備えていることになるではないか、という気持ちが湧いてくる(このような指摘は野暮だ)。定義が曖昧であるが故の、議論への乗れなさがあるのである。

これは、佐藤文香が『菊は雪』(2021)の「菊雪日記」で、「口語・文語という区別はわかりにくいので、最近の言葉(話し言葉/書き言葉)と文語(現在日常でつかわなくなった書き言葉。〔後略=筆者〕)」と振り分け、「口語俳句と括られるものの多くが既にして一時代前の雰囲気を醸し出すようになってしまった現在」、「我々がしゃべる言葉をそのまま作品に転換する技はどうあるべきか」と整理していることに及ばない。さらに言えば、座談会のメンバーが「肉声」やいま・ここの「私」を重視するのであれば、荻原井泉水の『層雲』や栗林一石路、橋本夢道などが中心となった自由律俳句や、プロレタリア俳句運動に深く踏み込んでほしかった。夢道など〈妻よおまえはなぜこんなに可愛いんだろうね〉から〈大戦起るこの日のために獄をたまわる〉まで、まさにいま・ここの「私」の活写以外ではありえない。座談会で自由律俳句の議論がなされないのは、参加者が定型にこだわるからだ。一方で、後藤は「なぜ口語を選ぶか」について、「毎日、口語で喋っているから」口語で俳句を書いているという池田澄子のインタビュー記事に影響を受けていると言う。ならば、誰も五七五で喋っていない現代で、後藤はなぜ定型を選ぶのか。

「口語俳句」を名乗るなら、それは必ずや定型からそれていくはずだ。ならば、いま・ここの「私」の「肉声」を重視する立場の口語俳句の書き手が、それを棄損しさえする定型を選ぶことについて、まず口語定型俳句の書き手が議論すべきだろう。無自覚そして無批判に定型を用いるなら、それは選択ではなく、俳句への〝凭れ〟ではないか。と思っているところに、遅ればせながら『週刊俳句』のおおにしなお「ゆらめくようにだめなとこ」(4月20日) を読んだ。

ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖
しっぱい、でした◦・*: かたくりの花籠にゆれ

一句目は「不注意優位/遊泳禁止の/夢見る湖」と漢字で表記すれば意味が取りやすかろう。定型を磁場とする七音、八音、六音の破調。ひらがなと長音符で視覚的に引き延ばし、意味を取りづらくした上で(筆者は人に教えられて「不注意優位」に気付いた)ADHDを句材にすること、fとyuとiの音が構成する韻律の全てが、寒色系のパステルカラーで彩られた2010年代以降の「ゆめかわいい」精神の活写だ。二句目も、中七下五が定型なので口語が損なわれているように見えるが、インターネットで多用される書き言葉を前提とした記号の使用や「しっぱい、でした」というフレーズは一句目と同様の精神性を示す。厳密には佐藤文香の区分が適用されるべきだが、おおにしの作品が現代精神の活写である以上、これを論じ、位置づけるのは口語定型の書き手の重要な課題だろう。

口語の書き手が、俳句形式に凭れることをやめたとき、詩を書き始めることも自然だ。2013年に発表された当時高校生の内田遼乃の〈ばっきゅーんうちぬかれたハートはもうはつなつのチョークのよう〉(「週刊俳句」) を筆者が見たとき、すでに彼女は俳句を書いていなかった。俳句における口語の可能性を開き得ていた彼女が詩を作る理由に、俳句が成りえなかったことは、俳句の不幸である。おおにしはなにをもって、掲句を俳句だというのであろうか。それが、ほかならぬ俳句への愛であるというのなら、それは間違いなく俳句の幸いである。

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