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 小熊座・月刊


   2024 VOL.40  NO.465   俳句時評


    主観客観私感(5)
                         
及 川 真梨子


  主観の持ち主である主体について考えよう、というのが、現在地です。

  主体となる者(主観を持つ者)の一人である「作者」について、堀田季何の「作

 者の多層構造」に基づいて考えていました。

  参考までに図を再掲いたします。

        

  「(一般的に)作者」と呼ばれる者と「(一般的に)作中主体」と呼ばれる者の違

 いは、作品(テキスト)の中と外のどちらに存在するかと考えてよいでしょう。

  前回の繰り返しになりますが、再度整理してみます。

  例えば、次の句において考えてみましょう。

   わが行けば後ろ閉ぢゆく薄原         正木ゆう子

  この句では、「われ(わが)」という一人称が明示されています。

  「俳句は一人称の詩である」という元来からある読み方をすれば、作者は正木ゆ

 う子であり、作中の「われ」も正木ゆう子自身なのだ、という説明になります。

  また、「作者/作中主体」という読み方をすれば、正木ゆう子は作者であり、作品

 の中で薄原を行く「われ」は作中主体である、となります。

  この句の場合は両方の考え方をしても違和感はありません。

  一人称は明示されないが、作中に一人の人間が出てくる句はどうでしょう。

   をりとりてはらりとおもきすすきかな      飯田 蛇笏

  この句には一人称はありません。人間がいると文字で書かれているわけでもあり

 ません。しかし、薄を折り取るという行為をする者は、一般的に人間であろうと、読

 者は想定します。

  さらに単純接続の「~て」が使われ、軽い切れがありますが、折り取った人もはら

 りと重いと感じた人も同一人物と考えて良さそうです。

   ピーマン切って中を明るくしてあげた      池田 澄子

 であれば、ピーマンを切った人は人間でしょうし、これにも単純接続の「~て」があ

 りますが、ピーマンを切った人と中を明るくしてあげた人は同一人物として良さそ

 うです。

   富士を去る日焼けし腕の時計澄み       金子 兜太

 であれば、やはり「澄み」が単純接続です。個人的には倒置法で「日焼けし腕の時

 計澄み、富士を去る」の意で受け取るのが好きで、この場合は、富士を去る人、

 腕時計が澄んでいると感じた人は同一人物です。また、倒置でなくても同じ人と解

 釈して良さそうです。

  作品の中に一人の人間が想定できますから、「作者=作中主体」、あるいは「作

 者/作中主体」という読み方は両方とも成り立ちます。

  しかし、次のような句はどうでしょう。作中に人が複数います。

   万緑の中や吾子の歯生え初むる        中村草田男

  この句には、初めて歯が生えた赤ちゃんがいますが、赤ちゃんがそれを認識し

 て俳句にしたわけではありません。

  わが子を抱き、乳歯に感動している親の視点で描かれていますが、その親はい

 わば映像フレームの外にいます。

   人それぞれ書を読んでいる良夜かな      山口 青邨

  こちらでも、書を読んでいる複数の人がいます。そして、それを見て良夜らしさ、

 良夜の味わいに感じ入っている人の視点があります。場面を見ている人が同じよ

 うに書を読んでいるのかもしれませんし、ただ立って眺めているのかもしれません

 が、それは映像の外で直接書かれては居ません。

   冬帽を脱げば南に癖毛立つ           今井  聖


  この句は難しいですが、帽子を脱いで立っている癖毛を見ている人、さらにその

 癖毛が南を向いているなあ、と気づける人は、帽子を脱いだ人自身ではないと思う

 のです。こちらも、帽子を脱いだ人の他に、それを眺めている人がいることになり

 ます。

  このように作品から読み取れる人が二人以上いて、さらに作品の映像の外に

 「眺める人」がいるとき、「視点主体」という考え方が応用しやすくなります。

  作品の中で行為をしている人が「作中行為者」で、それを見て感想を抱いている

 人が「視点主体」です。

  〈をりとりて〉〈ピーマン〉〈富士を去る〉の句のように、視点主体と作中行為者

 が同じ場合もありますし、〈万緑〉〈人それぞれ〉〈冬帽を〉のように、視点主体と

 作中行為者が違う場合もあります。さらにいえば、〈人それぞれ〉のように、視点

 主体と作中行為者が、同じなのか別なのか判断できかねるものもあります。

  この句の視点主体は誰で作中行為者は誰で、と考えるというより、全ての作品

 に視点主体、作中行為者がおり、考え方として分けた方が、俳句という形式を捉え

 やすくなるでしょう。

  「作中主体」という表現では、視点主体と作中行為者が違う場合や、作品に人が

 複数出てくる場合に、いったい誰を作中主体と呼んでいるのかわかりづらくなって

 しまいます。

  このわかりづらさは、以前書いたように、「主体には、①考えるその人と、②動作

 をするその人(物)の二つがある」ためでしょう。

  俳句において、どのように物を見ているのかという視点と、即物的に場面や映

 像がわかるように表現するという点はとても重要です。

  作品主体という言葉ではそれを無視したまま議論が進んでしまう恐れがあります。




 
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